玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

コルム・トビーン『巨匠』(3)

2022年01月30日 | 読書ノート

 生涯結婚することのなかったヘンリー・ジェイムズは性的不能者であったとか、同性愛者であったとか言われているが、私は伝記を読んでいないので詳しいことは分からない。トビーンが挙げているレオン・エデル著の5巻本の伝記があるそうだが、そんなものを読む気はしない。
 ジェイムズの自伝も3巻本が翻訳されていて、私はそのうち1巻だけは読んだが、それを読むことで何も得るものはなかったというのが正直なところである。だから2巻と3巻は手つかずの儘になっている。私には作家がどのような人生を送ったか、などということにはほとんど興味が持てない。私に興味があるのは、その作家が作品を通して何を実現したかということであって、それ以外ではない。
 トビーンの興味は私とはまったく違っている。彼の興味はジェイムズが作品の裏に何を隠したかというところにあるようで、「日本語版に寄せて」で次のように書いている。

「ジェイムズの小説の最高傑作である『ある婦人の肖像』、『大使たち』、『鳩の翼』、『黄金の盃』には、性の秘密であることが多いのだが、暴露されたらそれこそ衝撃的であろう秘密が隠されている。これが筋だけでなく、秘密を隠す人物、それもエネルギーに満ちて巧みに隠す人物と、あるいは、ほとんど明らかなことに気付かない無垢な人物とを活気づけるものだ。」

 この文章の前段と後段の間にはトビーンの誤解による矛盾がある。ジェイムズ自身が作品において隠したものと、彼の登場人物が隠したものとの間には、層の違いがあるのであって、それを同一の位相で語ることはできない。彼の登場人物たちはお互いに、あるときは隠し、ある時は探るというように、相互に決して融和的であることがない。それがジェイムズの小説の特徴というだけではなくて、おそらく心理小説といわれるものの特徴なのだ。心理小説はもっぱら恋愛を描きながら、〝愛の不可能〟をこそ語るものだからだ。
 ジェイムズの隠された性の問題を言うのなら、そのことで充分ではないか。彼は〝愛の不可能性〟のもとで生きかつ書いたのであって、登場人物たちが彼らの秘密を隠すようにジェイムズが彼の秘密を隠したなどというのは、間違った考え方である。別に彼の秘密は作品の中で隠されてはいない。『ある貴婦人の肖像』のイザベル・アーチャーやラルフ・タッチエットも、『大使たち』のランバート・ストレザーも、『鳩の翼』のマートン・デンシャーも、『金色の盃』のアメリーゴ伯爵も、そうした生き方をするのであって、何も隠されてなどいない。
 性的不能や同性愛的嗜好が隠されているとトビーンは言うのかも知れないが、トム・ハモンドやヘンドリック・アンデルセンを登場させて、ジェイムズの性的な嗜好を描いたところで、それで」一体何が文学的に付け加えられるというのだろうか。そんなものに私は興味はない。
 この小説で重要な位置を占めるコンスタンス・フェニモア・ウールスンとの交際についてもそうである。年譜によれば、1887年からジェイムズと彼女との付きあいが始まり、1894年に彼女がヴェネツィア自殺したという経緯がある。年譜には「交わる」と書いてあるが、何もそれが性的交渉を意味しているとは限らない。
 彼女がジェイムズの冷淡さ故に自殺したという説をトビーンは採っているが、確かなことは誰にも分からない。だからトビーンも具体的なことは何も書いていないが、そこにジェイムズの不能が関係していたとしても、それもまた重要なこととは思えない。
 そう一つ致命的な欠陥が『巨匠』という小説にはある。それは1895年から1899年までの5年間に絞って書くと言い、そこに後期3部作に結実する重要な要素があると言っておきながら、小説のほとんどがそれ以前の時期への回想的な内容になっているところである。病気で夭折した妹との関係についてもそうだし、相思相愛の関係にあった従妹のミニー・テンプルとの関係についてもそうだ。大事なコンスタンスとの関係についてもそれは過ぎ去った事件に過ぎない。ヘンドリックとの同性愛と兄のウィリアムとの交流以外は、すべて過去のこととして語られているのだ。だからそこに後期3部作に結実する重要なモチーフを読み取ることが私にはできないのだ。
 私はこれからジェイムズを読んでいこうとする人に、この小説を薦めない。それは私がジェイムズのあの観念的な作品『聖なる泉』を薦めないのと同じ理由からである。つまりそれらの本を読むと、ジェイムズという人間が嫌いになってしまうであろうし、それが大きな損失であると私には思われるからである。
(この項おわり)