玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

「北方文学」第88号発刊

2023年12月21日 | 北方文学

「北方文学」第88号を発行しましたので、紹介させていただきます。先号より地方小出版流通センター扱いとなり、大手取次を通して全国の主要書店に少部数ではありますが配本されています。同時に紀伊國屋ブックウエブや楽天ブックスなどのネット書店でも検索して購入できるようになっています。今年、新潮社刊の『文藝年鑑』の「同人誌」の項で、真っ先に「北方文学」が取り上げられていますので、少しは注目されるかもしれません。

 巻頭は魚家明子の詩2篇。「夏の幻想」と「ノックする」です。最近の魚家の作品は生き生きしていて言葉に力があります。言葉の肌触りというか、手触りというか、それがしっかりしていて、読み流すことのできない作品になっていると思います。
 二人目は館路子の「霊地たる山に居て風と別れる」。いつもより短めの長詩で、死者の霊との交感、あるいは死者の霊との交感への願望を歌った作品です。修験者の白装束が出てきますが、7月に同人仲間で八海山にロープウェイで登った時の体験が生きています。
 続いて、鈴木良一の〝これでも詩〟という「断片的なものの詩学」第2弾「ロシアから即興の風が吹いてくる5」です。鈴木が住む新潟市沼垂地区の歴史のこと、ロシア人、アレクセイ・クルグロフの即興演奏のこと、ノイズムのロシア公演のこと、ロシアのウクライナ侵攻のことなどの断片が犇めいています。
 徳間佳信の「諏訪行」が続きます。友人と諏訪湖を訪れた時の短歌7首です。

 批評はまず、霜田文子の「「内なる差別」を見つめて――津島佑子『狩りの時代』を読みながら――」です。津島佑子の『狩りの時代』を中心に、障害者に対する差別の問題を、ナチスの優生思想に基づく障害者虐殺の歴史と、霜田自身の体験を背景に論じています。2016年の植松聖による、やまゆり園での大量殺人のことも浮かび上がってきます。杉田俊介の「「どんな重度の障害者の生でも意味がある」と言ってしまうと、「『意味/無意味』『善い生/悪い生』という差別的な二分法が温存されてしまう」という言葉がすべてを語っています。「どんな人間の生にも意味などはない」という考え方が正解ではないでしょうか。それにしても重いテーマですね。
 次は海津澄子が2022年度のノーベル賞作家アニー・エルノーを論じた「身につまされるということ、語られた物語を受け取ること」。エルノーの作品への共感を語りつつ、日本の文芸ジャーナリズムによる作者の体験へのこだわりに対する批判もなされている。重要なことは作品に共感し、それを受け止めること以外にはないのでしょう。
 鎌田陵人の「完全に姿を消す方法――レディオヘッド試論――」は、ロック評論です。レイディオヘッドのトム・ヨークがジョニー・グリーンウッドと一緒に組んだ新バンド、Smileの新曲Bending Hecticに触発されて書かれた、本格的なレイディオヘッド論になっています。「完全に姿を消す方法」というのは、レイディオヘッドの最高傑作といわれるHow to Disappear Completelyのこと。2曲を対比してレイディオヘッドの今後を予想しています。
 しばらく書かないと言っていた榎本宗俊が、「「西行」異論」を寄せています。過去に書いたものということです。西行の歌を小林秀雄のように近代的自我の側面から読むのではなく、道歌として読む方向を探っています。
 続いて徳間佳信の「「希望」の語り方――張惠?「街頭の小景」から――」。中国現代小説に間テクスト性の論点から切り込んだ評論です。参照されるのはチェーホフと魯迅の作品です。中国の絶望的な現実を描きながらも、希望を失わない張惠?の作品に高い評価を与えています。張惠?「街頭の小景」の翻訳も掲載しています。
 研究では、坂巻裕三の「荷風と二人の淳 Ⅰ」が永井荷風研究の第4弾になります。二人の淳とは作家・石川淳と批評家・江藤淳のこと。今回は石川淳の永井荷風についての二つの文章について触れています。一つは荷風生前に書かれ荷風を称讃する「明珠暗投」、もう一つは荷風の死直後に書かれ、荷風の文学を全否定する「敗荷落日」。この落差の拠って来るところを推理しています。
 書評が一本、柴野毅実の「青木由弥子『伊東静雄――戦時下の抒情』を読む」です。単なる書評ではなく、柴野の伊東静雄体験から始め、青木の女性らしい独自の視点と新たな評価軸を紹介し、橋川文三の『日本浪曼派批判序説』を読んでの伊東静雄と戦争についての論点を確認するものとなっています。
 福原国郎の「三五兵衛駕籠訴――越後国村上領百姓濫訴の事――」が続きます。いつものように古文書から読み解く郷土史研究ですが、越後国村上領現燕市の百姓たちが、村の天領化を求めて幕府に命がけの直訴を行う過程を活写しています。
 少し文学から離れますが、研究として重慶外国語外事学院教授の高鵬飛氏が「古墳に埋葬された竹簡と家族への手紙??『雲夢睡虎地秦簡』をめぐり??」を寄稿しています。湖北省孝感市雲夢で1975年に発掘された、古墳で見つかった清の時代の竹簡についての紹介です。権力者ではなく、戦争に駆り出された一般庶民が家族にあてて書いた手紙を紹介しながら、高氏は歴史は一般庶民がつくるものとし、権力者に翻弄される庶民の姿に、今日にも通じるものを読み取っていきます。
 小説は2本。まずは板坂剛の「偏帰行」。全共闘世代のカリスマ的存在として活躍した兄と、いささか普通でない弟の物語。兄は渋谷騒動で警察官を死亡させるなどの過激な活動を続けるが、次第に反革命勢力の根絶のための内ゲバにのめり込んでいく。弟もその片棒を担ぐことになるが、その過程で当時の左翼セクトに対する批判的な見方が、作者によって示されていると読むべきでしょう。兄と50年ぶりに再会するラストのシーンが、ちょっとびくっとするくらい衝撃的です。
 続いて柳沢さうびの「書肆?水と夜光貝の函(1)」。時代は戦後、舞台は?崎市海水浴場に立つ「客舎?水樓」。新制高校も舞台の一つ。いささかエキセントリックな若者たちの青春群像を描かせると、柳沢の筆は冴えわたります。高校生離れした教養の持ち主・澗川理彦(たにがわあやひこ)とこちらも本の虫のような浄水文(きよみずあや)との、文学をめぐっての交流。それが理彦の謎めいた乳母・さくが絡んでどう発展していくのか大きく期待が膨らみます。3回連載の第1回目。

 

以下目次を掲げます。

魚家明子*夏の幻想
魚家明子*ノックする
館路子*霊地たる山に居て風と別れる
鈴木良一*断片的なものの詩学――2 「ロシアから即興の風が吹いてくる5
徳間佳信*諏訪行
霜田文子*「内なる差別」を見つめて――津島佑子『狩りの時代』を読みながら――
海津澄子*身につまされるということ、語られた物語を受け取ること
鎌田陵人*完全に姿を消す方法――レディオヘッド試論――
榎本宗俊*「西行」異論
徳間佳信*「希望」の語り方――張惠?「街頭の小景」から――
坂巻裕三*荷風と二人の淳 Ⅰ 
柴野毅実*青木由弥子『伊東静雄――戦時下の抒情』を読む
福原国郎*三五兵衛駕籠訴――越後国村上領百姓濫訴の事――
高 鵬飛*古墳に埋葬された竹簡と家族への手紙――『雲夢睡虎地秦簡』をめぐり――
板坂 剛*偏帰行
柳沢さうび*書肆?水と夜光貝の函(1)


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