玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ベス・ハート、ライブ(2)

2018年12月13日 | 日記

 さて、アンヴァリッドを出て正面を見渡すと、広い通りの向こうの左右に大きな建物が見える。地図と照らし合わせてみると、橋を渡って左にグラン・パレ、右にプチ・パレであるらしい。どちらも1900年のパリ万博の時に建てられた建物である。それを過ぎるとシャンゼリゼ大通りに突き当たって、左に折れてまっすぐ進むと凱旋門に到達すると分かった。
 とにかく歩いてみようということで、相当時間はかかるだろうが、パリの街を満喫するためにもひたすら歩くことにした。20分ほど歩くとアレクサンドル3世橋にさしかかる。やたらと装飾彫刻の多い派手な橋で、悪趣味きわまりない。

 

アレクサンドル3世橋

  橋を渡って左のグラン・パレに到達。巨大な建物でこれも派手な建物だが、アレクサンドル3世橋ほど金ぴかではないので救いはある。あまりに建物が大きすぎて入り口がどこか分からない。正面にミロ展の巨大な懸垂幕があった。これは観たいと思ったが、行列ができていて1時間くらい待たされそうなので断念。ミロ展の入り口を探すだけでも一苦労だったのに。

グラン・パレ(入り口右にミロ展の懸垂幕が見える)


 グラン・パレの内部にも興味があったが、正式な入り口がどうしても分からないので、あきらめて正面のプチ・パレを覗いてみることにした。確かにグラン・パレよりは小さいが、これのどこが〝プチ〟なのかと思うくらい、これも大きな建物である。ここではつい先頃まで伊藤若冲展をやっていたことを聞いていた。

プチ・パレ


 若冲展は日本からの企画で実現した「ジャポニスム2018」の一環で、大変な人気だったらしい。なんと4時間待ちの行列ができたという。ちなみに私がパリ初日の12日に観たArt Brut Japonais Ⅱも「ジャポニスム2018」の一部であった。とにかく印象派の時代からフランス人は日本文化が大好きだったのだ。

プチ・パレ内部


 プチ・パレでは企画展はやっていなくて、無料の常設展だけであったが、それだけでも建物と展示作品は見応えがある。これでプチ・パレならグラン・パレの方はどんななんだろう、もう一度来てみなければと思った。
 シャンゼリゼ大通りはすぐそばである。さあ、どんなところなのかゆっくり歩いてみよう。とにかく道幅が広い。20メートルくらいあるのだろうか。向かいの商店の様子などほとんど分からない。ひたすら凱旋門に向かって左側の歩道を歩いていく。ただ宝石店だとか、ブティックだとか私には縁のない店が多い。お昼を過ぎていたので昼食をと思うが、どの店も高そうで敷居が高く足が止まらない。
 ピザレストランがあったので、ここなら高くはないだろうと思い入店。ピザ・マルゲリータとコーヒーを注文し、二階の窓から下の通りを観察する。いろんな人種が行き交っている。白人、黒人、アラブ系、イスラム系、中国人等々。アメリカほどではないだろうがフランスもまた多民族共生の社会なのである。
 その中で中国人だけは旅行者で、集団をなして歩いている。彼らは観光バスで移動するので地下鉄では姿を見ない。ただ18日に体験することになったが、セーヌ川の遊覧船は乗客の95パーセントが中国人であったことにびっくりした。
 歩いて、歩いてようやく凱旋門に到達。凱旋門にはそれほど興味はなかったが、ここからRERでサン=ジェルマン=アン=レーに向かわなければならない。しかし、13日に購入したミュージアム・パス(パリ中の60カ所くらいの施設をこれひとつで見学できる)があったので、中を覗いて門の上まで登ってみることにした。
 前日の14日にはノートル・ダム寺院で、400段の螺旋階段を登り切って、高さ46メートルの塔の上まで行っているから、凱旋門の階段など何ほどでもない。中の展示物も観たがそれほど面白いものでもなく、すべて忘れた。門の上からの展望もとうていノートル・ダム寺院の塔の上からのそれに比べようもない。
 20日に日本に帰った直後にシャンゼリゼ封鎖、凱旋門でデモ隊暴徒化のニュースが流れたのには驚いた。燃料税引き上げに反対する市民達の反マクロンデモということだが、ホテルでテレビを見たときに例の黄色いベスト運動のことを報道していたのを思い出した。フランス語は聞き取れないが、何か不穏な動向があることだけは分かった。
 デモが少し早ければシャンゼリゼはおろか、土日には閉鎖された主要な観光施設を観ることができなかったかも知れない。しかし、テレビの報道では彼らがそれほど暴力的な行動に出るような人々には見えなかっただけに、よほど腹に据えかねているのだろうと思わざるを得なかった。
 ちなみに、デモ隊はフランスの国旗に1789、1968,2018と書いているが、1789年はフランス革命の年、1968年はパリ5月革命の年である。フランス人は元から過激だったのである。2018年も革命の年としたいのである。マクロン政権を退陣に追い込み、新たな政権の樹立につながるかどうか?

凱旋門の股ぐら


 とにかくシャンゼリゼも凱旋門も早々に切り上げてRERのシャルル・ドゴール・エトワール駅からサン=ジェルマン=アン=レーに向かう。車窓からの景色はどこにでもある都市郊外のそれで、パリの通勤圏内にあるのだろう、集合住宅が目立つ。集合住宅といっても高層マンションはなく、4~5階建てのアパルトマンがほとんどである。
 しかし、サン=ジェルマン=アン=レーに近づくにつれて、一戸建ての住宅が増えてくる。ここはフランス有数の高級住宅地の町なのだ。フランス人の夢はパリにアパルトマンを経営し、その収入で郊外に家を建てて遊んで暮らすことなのだそうである。サン=ジェルマン=アン=レーというところはそんな町なのであった。

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ベス・ハート、ライヴ(1)

2018年12月11日 | 日記

 以上のようにして私は妻と二人でパリへ出かけ、ベス・ハートのライヴ当日15日の朝を、オペラ座近く、地下鉄のグラン・ブールヴァール駅から歩いて3分という絶好のロケーションにある、ホテル34bアストテルで迎えたのである。
 パリ滞在は飛行機での移動時間を除いて、12日から19日までの8日間であり、その間主要な観光地はたいがい訪れた。13日にはヴェルサイユ宮殿も見学したが、この日は少なくとも4時間は歩いた。ヴェルサイユは宝物や美術品、豪華な建物をこれでもかという感じで見せつけるので、腹一杯になる。こんなことしていたらギロチンで処刑されるのも当然というべきか。
 パリは東京と違って範囲が狭いので、たいていのところは歩いていける。ということで15日も相当に長い距離を歩くことになった。以下は15日のベス・ハートのコンサートまでの全記録である。
 朝はホテル近くのパン屋で朝食を摂る。朝7時頃から開いていて食べるスペースも確保されている。たいていクロワッサンとコーヒーで済ませる。クロワッサンはばかでかくて日本のものの倍はあるから、一個と少しあれば済む。コーヒーは基本的にエスプレッソで、きついときはカフェ・アメリカンを注文する。これが日本のコーヒーに該当する。
 15日は友人のS夫妻と現地サン=ジェルマン=アン=レーの駅で午後3時の待ち合わせだから、充分観光に費やす時間はある。しかし、予定をきちんと決めていなかったので行き当たりばったりの行動を取ることになる。

マドレーヌ寺院正面

 前日ノートル・ダム寺院を訪れて深い感動を憶えたので、教会を観たいと思い、まず地下鉄でマドレーヌ駅に向かい、マドレーヌ寺院を見学することにした。マドレーヌ寺院はまるでギリシャ建築のような建物で、「これでも教会か?」と思ったが、内部は教会そのもので、巨大なパイプオルガンが設置されているのに驚いた。
 入り口付近にはいろいろなコンサートのチラシやポスターが貼ってあり、ここはパリ市民のクラシック・コンサート会場として利用されていると分かる。正面の扉に十戒をテーマにしたレリーフがあって、気に入ったので写真に撮ったはずだが、ない。
 マドレーヌ寺院は街の雑踏の中にある。正面から通り越しにコンコルド広場の塔が見える。後で聞くところによると、50年ほど前にはこの通りの両側には、観光客目当ての街娼がずらりと並んでいたそうで、彼女らは当時公娼であったらしい。それにしても寺院の前で客引きとは罰当たりな。

マドレーヌ寺院からコンコルド広場を望む

コンコルド広場の噴水

 コンコルド広場までは歩いて15分くらいかな。ここはフランス革命時にルイ16世とマリー・アントワネットがギロチンで処刑された場所で、しかしそんなことを偲ばせるものは何もなく、エジプトのルクソール神殿から運んできたという「クレオパトラの針」と、どこかオリエンタルな雰囲気の噴水がそれを挟んで一対あるのみ。
 殺風景なのと、中国人の団体に寄付を強要されて不愉快だったので、早々に切り上げて隣のチュイルリー公園に。ここも11月の寒空に木々の葉も落ちて殺風景きわまりない。公園の向こうに前日訪れたルーブル美術館が見える。
 園内には、オランジュリー美術館がある。妻はせっかく来たんだから観ようと言うが、私はモネが好きではないのでパス。パリに来てモネを観ずに帰る日本人も少ないだろう。出口で騎馬の警官隊に出くわす。今時馬で、と思うと同時に、糞はどうしているんだろうと思う。案の定近くに馬糞がボツボツと落ちている。誰が始末するんだろう。
 私は少年時代、まだ荷馬車が往来を通っていた頃、道の真ん中に点々と馬糞が落ちていたことを思い出した。パリもまた馬車しか交通手段がなかった時代には、道路に大量の馬糞が落ちていたことだろう。そんなことは18・19世紀の小説を読んでもどこにも書いてないが、それが当たり前の風景であり、意識するようなことではなかったということなのだろう。
 サン=ジェルマン=アン=レーに向かうために凱旋門の下にあるシャルル・ドゴール・エトワール駅からRER(郊外高速鉄道)に乗ることにしていたが、まだ時間がたっぷりあるのでもう一か所行こうということで、地下鉄でアンヴァリッド駅に向かう。

アンヴァリッド

 アンヴァリッドがなんなのか調べていなかったので、遠目にドームが見えたときには、これも由緒ある教会なんだろうと思った。歩いて近づいていくとドームの前に大きな建物が横たわっている。Musée de l'Arméeと書いてある。教会でなく、軍事博物館かと思ったが、建物の向こうにあるドームが気になる。博物館は観ないでドームの方へ。
 ここは全体がアンヴァリッド(廃兵院)で、そこにナポレオンの柩を収めたドーム教会があり、軍事博物館も併設しているということなのだ。後で調べたらそこにはレジスタンス記念館もあったらしい。見学してもよかったな。

ナポレオンの柩が収められたドーム教会

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近況報告(2)

2018年12月07日 | 日記

 今回のパリ行きの最大の目的はそんな文学的なテーマではなく、アメリカのブルース・シンガー、ベス・ハートのヨーロッパツアーを追いかけて、11月15日にパリ郊外のサン=ジェルマン=アン=レーで彼女のコンサートを聴くことにあった。
 そのための準備を私はパリ行きの計画を決めた今年初めからやっていた。フランスでは今年5月にパリのPalais des congrèsでコンサートを行っているが、本格的なツアーはフランスでは11月に入ってストラスブールから始まって、リヨンまで7カ所を回るというものだった。
 パリに行くのだからパリから最も近いサン=ジェルマン=アン=レーがいいだろうとあたりをつけ、オフィシャルHPでチケットの売り出しを待ったが、いつまで待ってもbientôt disponibleの表示が出るだけで、サン=ジェルマン=アン=レーの直前のリールや直後のツールのチケットはとっくに売り出しになっているというのに、埒が明かない。
 とにかく日課のように毎日オフィシャルHPを開いて、11月15日のところを覗いてみるのだがまったく変化がない。次第に不安になってくる。サン=ジェルマン=アン=レーがだめなら、13日のリールのチケットを確保しておかねばならない。
 そうこうするうちに7月の入院前に、ついにチケットが売り出しになった。と思ってよく見ると、会場となるアレクサンドル・デュマ劇場の会員先行販売であって、一般売り出しは9月11日午後1時と書いてある。
 さあどうする。会員販売で売り切れたらどうする。あるいは会員になって特典を受けるのもいいが、二度とサン=ジェルマン=アン=レーになど行くことはあるまい。ここはどうしてもリールのチケットを確保しておかなければならない。と考えて迷いつつもViagogoというチケット販売会社からオンラインでチケットを買った。
 幸い、行けなくなったら買い戻しもしてくれるようなので、意を決したのである。オンラインでチケットを手に入れる場合、パソコンやスマホにコンサートの2~3日前に送られてくるということだが、ここにも大きな問題がある。居住地の近くならいいが、海外の場合、デスクトップのパソコンに2~3日前に送られてきたら、すでに目的地へ向けて出発した後ということだってあり得るではないか。これも困った。
 リールの場合は幸い1週間前ということで、出発が11月10日でコンサートが13日だから間に合いそうである。しかしリールはパリから新幹線で1時間くらいのところにある都市で、帰りの新幹線はあるのだろうか。
 調べてみると11時過ぎにはもうパリに戻る新幹線はない。安全を考えてリールに泊まった方がいいだろう。そんなことも考慮に入れて、入院前に旅行社に飛行機とホテルの手配をお願いに言った。準備万端怠りなし。
 しかしリールはあくまでも保険であって、本命はサン=ジェルマン=アン=レーであることに変わりはない。今度は入院中のチケット手配ということになるから、病室にデスクトップを持ち込むわけにもいかないし、携帯をスマホに替えるしか方法がない。これも即座に決断してショップへ。
 7月24日に入院して9月11日までは長かった。それまでスマホの操作に馴れておかなければならない。また時差があるから気をつけなければいけないと思いつつも、11日午後1時(パリ時間)には、鎮痛剤の催眠効果で寝てしまい、起きてもボーッとしていたため挑戦は12日に持ち越した。
 アレクサンドル・デュマ劇場のHPを開いて、ベス・ハートのところを選択し、会場の見取り図の中から気に入った席を選ぶ。リールの場合は15,000円くらいのS席が取れたのだが、デュマ劇場は小さなホールで席数も少なく、よい席は予約済みだ。しかし中央後列に席を確保し、メールアドレスと暗証番号を打ち込み、クレジットカードの決済をすれば完了である。
 チケットはQRコードつきですぐにスマホに送られてきた。2~3日前というのはどうした? とにかくこれで生まれて初めて海外のコンサートのチケットを買うことができた。
 期待は膨らむばかり。もちろん退院後リールのチケットは売りに出した。
 売れた。
(この項おわり)

 

 

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近況報告(1)

2018年12月06日 | 日記

 6月21日にゴシック論の『夜のみだらな鳥』を終了し、7月10日に「出水市からのはがき」を書いて以来、このブログから遠ざかって半年が経とうとしている。実は7月24日から9月26日まで2カ月の入院生活を強いられ、その後も後遺症のためにものを読んだり書いたりすることができないでいた。
 病気はあの渋澤龍彦の死の病と同じ。しかしこちらは早期発見であったため、手術はせず放射線治療だけで一応完治した。今年に入って喉に違和感が続き、地元の医院で看てもらったが発見できず、長岡市の赤十字病院で見つけてもらった。
 もしかして転移が進んでいるのではとも思ったが、不思議と楽観的で37回の放射線照射と、抗ガン剤の併用で9割方治ると言われて「そんなもんだろう」と納得は早かった。入院は2カ月だが土日は外泊もOKだった。
 最初抗ガン剤の点滴をするときに、「重篤な副作用も稀にある。皮膚が乾いて全身にニキビのようなものができる。口内炎になってものが食べられなくなる」などと脅されたが、最初の点滴は何事もなく終わった。薬は計7回投与したが、顔がかさかさになったり、背中が痒くなったりする程度の副作用で済んだ。
 放射線の方は「15回目くらいから喉が痛くなってきて何も食べられなくなる」と脅されたが、20回を超えてもほとんど副作用はなかった。その後相当に喉の痛みを感じるようになったが、普通に食べることができた。医者には「我慢強いね」と言われたが、そうではなく鈍感にできているんだろう。
 しかし30回目くらいになって突然食欲が失せた。何を食べても砂を噛んでいるようで、まずいと言うよりも食べることが苦痛になってしまうのだ。味覚障害である。退院までに一度だけ食欲が復活したが、すぐまた元に戻ってしまった。むしろ退院後の半月くらいが味覚障害で苦しんだ時期だった。
 退院したら美味しいものを食べようと思っていたが、味が分からないのだから食べても失望を繰り返すばかり。卵掛けご飯と納豆ばかり食べていた時期もあった。
 ところで、今年の初めから11月にパリに旅行することに決めていた。友人のS氏がその頃2ヶ月間パリに滞在するので、いくらでも案内してくれるというのだ。ありがたい話だったが、本当に行けるんだろうかという不安はあった。
 しかし、パリ行きを目標に2ヶ月間の入院も乗り越え、味覚障害もある程度まで回復に漕ぎつけた。退院は9月26日でまるまる2カ月だったのだが、土日は家に帰っていたから正味は1カ月半であった。
 その間ガイドブックでパリの観光名所を調べたり、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』を読んだり、出口裕弘の『ロートレアモンのパリ』を読んだりして、事前準備に怠りはなかった。
『パサージュ論』はパリに18世紀に造られたガラス屋根付きの商店街、パサージュ(今で言えばアーケード商店街)をモチーフに展開した都市論であり、歴史論でもある。
 これを読んでおいて、パリに行ったらパサージュを歩いてみよう。できることならベンヤミンのようにそれを時代について考察する起点にしてみようと思っていたのだが、この目論見は完全にはずれた。
 20世紀初頭の激動の時代に亡命のようにしてパリに滞在し、パサージュを散策するのと、21世紀になっていかにもレトロな雰囲気を増大させた居心地のよいパサージュを歩くのとでは大違い。ほとんど生産的な思考など湧いてくることはなかったのである。
『ロートレアモンのパリ』の方では、ロートレアモン伯爵ことイジドール・デュカスが書いた『マルドロールの歌』の第六歌最後の場面、マルドロールがヴァンドームの円柱の上からマーヴィン少年を詰めた袋に紐を付けて振り回し、投げ飛ばして殺害する場面を思い出し、できればその円柱くらいは見たいものだと思った。
 出口裕弘はデュカスの住んだ居所についても詳しく追跡しているが、私には作家の旧跡を訪ねるというような趣味がないので、読んでもみな忘れてしまった(後で重要なことに気づくことになるが)。

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