玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

オノレ・ド・バルザック『幻滅』(2)

2020年07月28日 | 読書ノート

 ヘンリー・ジエイムズは、1905年のバルザックをめぐる講演の中で、次のような発言を行っている。

 

「彼には他の大作家に見られぬ特徴があります。読者に好都合なように、ある特定の作品が群を抜いて他のものよりすぐれているということが言えないのです。」

 

 つまりジェイムズは、バルザックの作品は「人間喜劇」という大きな「一つのかたまり」であって、その中から特定の作品を取り出して優劣を言うことには意味がないということを言っている。「読者に好都合なように」とは、多くの作品を持つ大作家に接する時に、代表作だけを「好都合」に読んで済ませることができないということも意味していて、読書の効率ということを考えた時には、誠にバルザックという作家は読者にとって不都合な作家なのである。

 さらにジェイムズは次のように言う。

 

「作品の一つが傑出していて他のものを代表し、全体の象徴とすることがないという現象は、他の種類の作品との際立った類似性を暗示するからです。」

 

 結局次のようなことが言えるだろう。バルザックの「人間喜劇」に属する作品の一つを論じることは、それが90編あるとしたら「人間喜劇」を90分割したその部分を論じるに過ぎず、その部分が「人間喜劇」全体を代表し、象徴することがあり得ないならば、どの作品も他の作品と類似してくるのだし、どの作品が彼の代表作であるとか、最高傑作であるとか言うことができなくなる。

 バルザックが『ゴリオ爺さん』で人物再登場法を採用して以降、すべての作品はお互いに関連していて、大きな全体の部分であり、独立した作品ではあり得ない。最高傑作は「人間喜劇」であるとしか言えないのである。

 中には比較的独立性を保っている『絶対の探求』とか『谷間の百合』とかいった作品もあり、それらが輻輳したプロットを持たず、一本の強力な柱に貫かれているように見えることから、そのような作品を最高傑作と見なす向きもあるだろう。しかし、そのような観点自体に間違った方向性があるとすれば、我々はそれに与することができない。

 だからバルザックの最高傑作を云々すること自体が間違っているのだが、それでもバルザックの膨大な作品の中で、どれを最高傑作とするかという議論の誘惑に抗することは難しい。では『幻滅』がバルザックの最高傑作といわれることの意味はどこにあるのだろう。私はあえて禁忌を犯してそのことに言及してみたい。それが間違った議論であるにしても、『幻滅』の美点について何かを言うことが、まったくの無益とは思われないからである。

 第一に『幻滅』のスケールの大きさを挙げることができる。登場人物がやたらと多くて、数えてみることまではできないが、東京創元社版の全集に掲載されている「作中主要人物リスト」だけで二十人を数える。実数はこの三倍はあるだろうから、六十人は登場しているだろう(ちなみにこのリストには、主人公リュシアンの詩を最初に認め、彼の恋人となるバルジュトン夫人の名前さえ欠落している)。

 登場人物が多いということが直接その作品の美点となるわけではないが、『幻滅』では複雑極まりない階級構造、社会構造が描かれていくから、人物の多さは小説の性質上位必然的なものであり、もしそれが上手くいった場合には、その小説の価値を高めるものとなるのは当然である。

『絶対の探求』のように一本柱で構築された作品の場合には当然人物は当然少なくなり、作品に締まりを与えるかもしれないが、必ずしもそれは「人間喜劇」が本質的に求めたものとは違う。つまり『幻滅』の方がより「人間喜劇」らしいのである。

 

オノレ・ド・バルザック『幻滅』(1974、東京創元社バルザック全集11,12巻)生島遼一訳