弁護士太田宏美の公式ブログ

正しい裁判を得るために

判事ディード法の聖域 Exacting Jastice と日英の法律的考え方

2011年06月21日 | 判事ディード 法の聖域

これはパイロット版です。
BBCでは2001年1月放送です。

「Exacting Jastice」はどう訳すべきかわかりませんが、
具体的な事件での正義というのは本当に判断困難ですが、
このシリースでディードのやろうとしていることです。
「正義とは何か」とでも訳すべきでしょうか。

ディードはまだ刑事弁護人としての考え方から抜けきれていない
ハイコートジャッジです、
一人娘のチャーリーは法学部に入学したところです。
ディードは離婚後シングルファーザーとして、チャーリーを育ててきました。
ディードの勤務地はサセックスなので、チャーリーはサセックス大学を選んだ
ようですが、母親のジョージと母方の祖父のチャニング(Law Lord)は
オックスフォードにしなかったが気に入らないと口もきいてくれないようです。

マイケル・ニヴァン判事は、いつもディードに同情的ですが、
そのニヴァン判事が
「法廷に入るのが待ち遠しいと感じていた時期があった。
法律に従い、物事を正して、結局、ケイオスに終っただけだ。
今朝から始まる事件もいやなものだ。
終身刑になどしたくない。
でも法律ではしかたがない。
それにLCD(ディードがいつも戦っている司法の総合監督部門)がいろいろと
ちょっかいを出してくる」などと愚痴を漏らしています。

イギリスでもこのころから司法改革の流れが現実的なものとなってきました。
制度は勿論のこと、価値観も大きく変わってきました。
これまでの法律では律しきれない事件が多くなってきたのです。
国民感情との乖離が、出世や自己保身にしか関心のない人は別にして
良心的な裁判官には、もはや我慢できないほどになっていたのです。
ただ、自ら声をあげて立ち上がるほどには勇気はないのでしょう。
だからディードのような一匹狼的な切れもの判事は、外はもちろん
内部関係者でも共感を呼ぶものがあったのです。

パイロット版では、時代背景がわかるようになっています。

さて、ニヴァン判事が負担を感じていた刑事事件を結局ディードが担当することに
なったのです(ニヴァン判事、病気で倒れる。心労のためかも)。
すんなりとそうなったわけではありません。
序列からいうとディードの番ですが、LCD(the Lord Chancellor's Department)
は、ディードをコントロールできないことはわかっていますから、
他の軽い事件を割り当てようとしますが、ディードはこういう企みがわかると
絶対に引きさがることはありません。
記録を隠してしまったりしますが、ディードは、記録などなくても構わないと
強引に裁判を初めてしまうのです。

刑事事件の内容
ひき逃げの死亡事件を起こしながら実刑になることなく釈放された加害者を
被害者の女の子の父親が射殺した事件で殺人罪に問われているもの。
被告人の父親に世論は同情的です。
ひき逃げの加害者は白人、被害者は黒人。
人種差別だとして、法廷の外では抗議の座り込みデモ。
LCDは、報復事件の連鎖を防止するために前例として、被告人の父親の
厳罰を求めています。
ニヴァン判事にも巧妙な方法でそういうプレッシャーがあったのです。

イギリスでは、殺人にはマーダー(murder)とマンスローター(manslaughter)
の区別があります。
Murderは殺意あるいは重大な傷害の故意がある場合で、終身刑しかありません。
Murderではなくmanslaughterになる場合として、Provocationという抗弁があり、
殺された被害者にprovocative(挑発的な)な行為があったと認められたときは、
一時的に我を忘れたということで軽い殺人となるのです。
manslaughterの場合の量刑は、極めて広く、身柄拘束なし(non-custodial)の判決
も可能なのです。
問題は、Provocationの成立要件です。
つまり、合理的な人間が、突然に、一時的に自己のコントロールを失い、殺してしまいたい
という強い思い(殺意)を持つほどの行為が殺された者にあったこと、つまりトリガー
ですが、の存在が第一要件なのです。
ところが、この場合は、先の交通事故の判決と本件殺人事件との間に4カ月の
ギャップがあったということです。
娘を殺しながら実刑にもならず軽い刑で済んだ、そういう怒りを持って殺すことはあるかも
しれないが、それにしても4カ月は長すぎるというわけです。

それと、この犯人は真面目な人ですが、娘の事故の後、ショットガンを購入して
いるのです(銃の所持については許可があるので、合法です)。
銃の許可申請は判決の前です。銃の所持の許可がおり、銃を購入したその日に
殺人は起こっています。
殺そうという意図があって銃を所持許可、購入をしたのではないかということも
争点になっています。こうなると、Murderしかないし、極めて悪質となり、
社会の秩序維持の観点からLCDが厳罰を希望するのはもっともとなります。

事態を難しくしているのは、被告人の父が、ショットガンで射殺したことだけを
認め、詳細を話さないことにあるのです。
なお、弁護人はジョーです。
なにがトリガーだったかが、Provocationの主張には必要ですが、
本人が語らない以上、推測するしかないのです。

第三者的にみると、軽い刑で済んだことがトリガーとしか考えられません。
そうすると、4か月もたってわれを忘れるほどの怒りとして爆発するメカニズムの
説明が必要です。
この被告人は、娘が死亡してから人が変わり、仕事はしていますが、
外の世界には全く関心がなくなったのです。
仕事もロボットのように機械的にこなしているだけというのです。
でも、弱いですよね。

ディードは例によってなんとかしたい、できればnon-custodialにしたいと、
検事側、被告人側を説得しようとしますが、検事側は譲歩しないし、
弁護人側も、本人はどうでもいい、生きていても仕方がないと、裁判の行方には
全く関心がないので、そもそも話し合いなどできません。
ディードは被告人に証言させるようにジョーを説得しますが、ジョーもお手上げです。

陪審員の評決はmurderです(10対2)。
LCDの役人も法廷に詰め掛けています。
ディードは、被告人は何か言いたいことがあるはずとの考えでした。
そこで、判決を言い渡す前に(終身刑しかないのですが)
何か話したいことはないかと問いかけます。

クライマックスです。
被告人が立ち上がり、話し始めます。
彼もシングルファーザーでした。妻を亡くした時、まだ小さい4歳のモナを
福祉局の職員は父親一人で育てるのは無理だとして、里親に出そうとした、
でも自分たち二人でやっていけるということで、いろいろ抵抗して
そうなった。
そして二人で頑張ってきた。
だから、娘が死んだ後はうちに帰るのも怖い。モナの思い出の品ばかりで
思い出すのが怖い。だから、帰ったことはないというのです。
いつかは死んだお母さんの故郷のジャマイカに
帰ろうと預金を始めた。お金が残れば全部郵便局に預金した。
264ポンドたまった。でもまだ40ポンド不足している。
目標額になる前に死んでしまった。
そして、運命の日です。
モナを引き殺した本人が同じローリーで、何事もなかったかのように
運転しているのを見たのです。
ショックのあまり路上に座り込んで泣き崩れてしまったというのです。
そして、何としてもモナが殺されるのをやめさせなければいけないと思って
ガンを発射したというのです。
「モナが殺させるのをストップしたかった」というのです。

彼の中ではまだモが生きているのです。

陪審員席がざわざわします。無罪だ、間違っていたなどです。

ディードはこういう雰囲気を読むのがうまいのです。
そして恐れず行動するのです。

ディードは「ひょっとして今の話を聞いて何かいいたいことありますか」
陪審長「私たち間違っていました。変えてもいいですか」
検察側は反対の意見を、例によって判例を取り上げて、述べようとしますが、
ディードは強引に抑え込み、
間違っているかどうか確かめるだけだ、とかなんとか言って、
書記官にもう一度評決をとるよう命令します(本当に命令です。
というのはこの書記官はLCDの手先・スパイなんです。
逐一、ディードの行動を報告しているのです。)

なんということでしょう。
無罪の評決です。
ディードもここまでは考えていませんでした。manslaughterとの考えでした。
念を押しますが、not guiltyです。
つまり、陪審員は一時的なものではなく、ずっと正気をなくしていたとの
判断だったのです。

間違いは正せるとの先例はあるのですが、いったん出された評決を変えるという
先例はないようです。
検事側は「評決が出た後、被告人の話を聞いて、変えた」のであり、先例に該当しない
という意見です(多分これが正しいでしょう)が、
ディードは誰にでも間違いはある、間違いと認めて、無罪を受け入れます。
世間では大好評で受け入れられます。

手続き的には問題かもしれませんが、ディードの判断基準は、正義ですから、
真実が一番重要なわけです。

このドラマは常時、600~700万視聴者がいました(人口数を考えると
日本では1200~1400万人が見ていたことになります)。
イギリスでも杓子定規でない、人間味のある裁判を、多くの人が求めている
ことの表れと思います。

私たちももう一度、正義とは何かを、改めて真剣に考えなければならない
時期だと思います。

なお、一連の司法改革の一環として、Provocationという抗弁事由は、
2009年法律改正により廃止されました。
「loss of control」というより概括的な概念に置きかえられました。
イギリスは判例法の国ですから、こういう展開しかなかったのでしょうが、
今では、判例法の国でも制定法が重要な役割を担うようになっています。

外国の事例をみると、スタート地点は違っても、目指すところは同じ(類似)
になるようです。
グローバル化してくると、求めるもの、求められるものがどこに住んでも
似通ってくるのは、当たり前なのでしょう。

パイロット版でも、ディードに対する嫌がらせはありますが、
これはまたの機会にします。