ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

義足でランウェイを歩く「バリコレ」 誕生の秘密

2016年10月18日 03時09分00秒 | 障害者の自立

 リオデジャネイロパラリンピックの閉会式セレモニーには、様々な障害のある人たち、義足のファッションモデルやダンサーがいた。その義足をファッションのひとつとして表現し、障害者がみずからモデルとなるショーがある。義肢装具士の臼井二美男さんの著書「転んでも、大丈夫 ぼくが義足を作る理由」(ポプラ社)で構成を担当したライターの高樹ミナさんが、バリアフリーなファッションショーが生まれ、広がったこれまでを振り返る。

 * * *
 10月10日・体育の日に東京都港区の六本木ヒルズで異色のイベントが開かれた。その名も「バリコレ2016」。パリコレならぬバリコレとは、障害者をモデルに起用したバリアフリーコレクションの略称だ。

 NHK Eテレで2012年にスタートした障害者の情報バラエティー番組「バリバラ」から派生したもので、身体、視覚、知的障害者や発達障害の子どもたち、LGBTに代表されるセクシャルマイノリティーなど、現代社会で“生きづらさ”を抱える人々がモデルを務める。その中には記憶に新しいリオデジャネイロパラリンピックの日本代表選手や過去のパラリンピックのメダリスト、2020年東京大会期待の若手選手らの姿も。障害をあえて前面に押し出した個性あふれる衣装を着た総勢50人が堂々のランウェイで会場を沸かせた。

◆スポーツ義足で知られる義肢装具士の発想がもとに

 一見、突拍子もないこの企画は、もとをたどれば一人の義肢装具士の発想に行き着く。彼の名は臼井二美男(60)。日本におけるスポーツ義足づくりの第一人者だ。

 義肢装具士として33年のキャリアを持つ臼井さんは、病気や事故で足を失った人の義足を作り続ける中で、ユーザーの希望を叶える数々の義足を考案してきた。例えば、好みの絵柄にできる義足や走れる義足、ミニスカートやハイヒールが履けるリアルコスメチック義足や妊婦も履けるマタニティー義足などがそう。いずれも障害があってもおしゃれを楽しみたい、好きなスポーツを続けたい、お腹が大きくなっても人の手を借りずに生活したいという、ポジティブな女性たちの思いを大切にするためだ。

「足をなくして生きる希望を失った人の多くが、一度は死にたいと言います。そんな患者さんたちが何とか立ち上がるきっかけを義肢装具士として作ってあげたい。一番いいのは自分を表現できる場所があること。それはスポーツでも芸術でも、ファッションでもいいのです」

 そう話す臼井さんの周りには、義足をあえて露出することで、「障害は隠すもの」という世の中の偏見を打ち破りたいという女性が何人かいた。そんな勇気ある彼女たちの思いを形にすべく、臼井さんは2000年シドニーパラリンピックから障害者スポーツを撮り続けている写真家の越智貴雄さんに、義足の女性をモデルにした写真を撮らないかと持ちかけた。

◆衝撃の写真集がファッションショーへ発展

 臼井さんに共感した越智さんは2013年、OLやアーティスト、アスリートら義足の女性たちにフォーカスした撮影プロジェクトを開始。手始めに写真展を開くと国内外で話題となり、翌年5月には『切断ヴィーナス』というセンセーショナルな写真集の発行にもこぎつけた。モデルの中にはリオデジャネイロパラリンピックの閉会式に出演した日本初のアンピュティー(四肢切断者)モデルのGIMICOさんもいる。「臼井さんの義足じゃなかったら、モデルをやろうとは思わなかった」とGIMICOさん。それほど臼井さんの作る義足は障害者に生きる希望を与えている。

『切断ヴィーナス』発行の翌年、繊維業が盛んな石川県中能登町から声がかかり、夏祭りの華やかな舞台に11人の義足の女性たちが立った。これが、このほど六本木で行われたバリコレの原型だ。

「こんなファッションショー、世界中を見わたしてもないよね。どのモデルさんもかっこよかったし、観客の皆さんも大歓迎してくれた。切断ヴィーナスから始まったプロジェクトが義足の人だけでなく、いろいろな障害を抱えた人たちに伝染していったのもいい現象だと思う」

 障害があっても臆せず社会に出ていけるようにという機運は近年、高まりを見せている。バリアフリーファッションショーのような事例は、障害者と健常者が同じ目的を共有し団結することで、自然と障害の壁を取り払える良い例だ。「心のバリアフリー」とも呼ばれる多様性を認め合う社会の実現は、こうした環境をいかに作り出せるかにかかっていると言えるだろう。

2016.10.16    


東京パラリンピックへ国際協力、ボッチャ研修会

2016年10月18日 03時02分46秒 | 障害者の自立

 国際協力機構(JICA)の「二本松青年海外協力隊訓練所」(福島県二本松市永田)で15日、アフリカや東南アジアなど11か国のスポーツ指導者らを招いた障害者スポーツ「ボッチャ」の研修会が行われた。

 2020年東京パラリンピックに向けた国際協力の一環で、日本代表ヘッドコーチを務めた白河市在住の村上光輝さん(42)が協力した。

 研修は、障害者スポーツの発展途上国普及を支援し、競技人口を増やすことで東京パラリンピックの成功にもつなげようと、JICAが企画。ルワンダやバングラデシュなど11か国のスポーツ指導者や政府関係者ら13人を招き、リオデジャネイロ大会で日本代表を銀メダル獲得に導いた村上さんがルールや指導法を教えた。

 村上さんは、試合で使うボールを実際に投げて、プレーのコツを指導。投げる際に腕がぶれないよう、車いすに体が触れても滑りにくい服装を勧めるなど、実践的なアドバイスをした。

 欧州発祥のボッチャは、まだ競技人口が少なく、高価なボールが手に入らない国もある。そこで村上さんは、小石を詰めた袋を紙で包み、ガムテープをまいてボールを作る方法も伝授。参加者は、写真を撮るなどしながら熱心に聞いていた。

 アンゴラのパラリンピック委員を務めるフェルナンデス・アデリト・ペレイラさん(48)は「戦争や病気が原因で障害を抱える人は多いが、できる競技が少ない。今回の経験を生かしたい」と話した。南スーダンで車いすバスケを指導するニャンバー・ケニイ・ガブリエル・ピティアさん(33)は「高価な道具がなくても、自分で工夫すれば練習できることを学んだ」と喜んでいた。

 研修は今月末まで続き、県内の障害者とスポーツで交流する機会も予定する。村上さんは「東京大会に向けて、普及の役割を担いたい」と意気込みを語った。

ボッチャを体験する参加者

 ◆ボッチャ=イタリア語で「ボール」の意味。重度の脳性まひや四肢に障害のある人のために考案されたスポーツで、手のひら大の赤と青のボールを白い目標球に向けて投げ、どれだけ近づけられるかを競う。

2016年10月16日 14時04分 Copyright © The Yomiuri Shimbun

補助犬受け入れに理解を いわて大会控え県が啓発

2016年10月18日 02時51分34秒 | 障害者の自立

 全国障害者スポーツ大会開幕が22日に迫り、県内で盲導犬などの補助犬の受け入れに対する啓発が進んでいる。補助犬は交通機関や飲食店、商業施設で受け入れが義務付けられているが、これまでの大会開催地では入店拒否がみられた。県内でも16人が補助犬を利用しており、無理解による受け入れ拒否に遭った例もある。関係者は「この機会に関心を持ち受け入れを進めてほしい」と願っている。

 市の広報を点訳している盛岡市の女性(58)は食べ歩きが好きで、よく盲導犬と共に市内の飲食店を利用する。補助犬への理解はだいぶ浸透してきたが「犬アレルギーの客が居るかもしれないと入店拒否されたこともある」と話す。

 「不都合があればすぐに店を出る」と説明を尽くしてやっと入店できることもあるが、チェーン店でも店舗によって対応が違うことがあり「経営者の考え方の違いなのか、接客担当者への教育に差がある。全国障害者スポーツ大会で訪れる他県の人に嫌な気分になってほしくない」と案じる。

 大会の県実行委は飲食業組合に配慮を求める依頼をしたほか、8、9月に行った交通機関や宿泊施設向けの接遇講習会で補助犬への理解を周知するチラシを配布。必要に応じて床に敷くバスタオルの準備や、事故防止のため障害者への積極的な声掛けなどを求めた。 盛岡市のそば店東家は、受け入れ態勢を再確認し、点字のメニューも準備している。馬場暁彦社長(46)は「障害者大会の参加者だけでなく、全ての客に楽しかったと帰ってもらいたい」と、もてなしの心を尽くす。

【写真=盲導犬の役割などを説明する日本盲導犬協会仙台訓練センターの職員=16日、一関市大町・なのはなプラザ】

(2016/10/17)   岩手日報

過去2年8カ月の間に、収容者129人が次々と死亡……

2016年10月18日 02時39分00秒 | 障害者の自立

【日刊サイゾーより】  韓国・福祉施設でいったい何が?

 横浜市神奈川区の大口病院で、点滴を受けた男性入院患者2人が中毒死した事件が注目を集めているが、韓国では、大邱広域市立希望院(以下、希望院)という福祉施設の数々の悪行が暴かれつつある。

 希望院はホームレス、統合失調症患者、障害者などを収容する、キリスト教カトリック系の福祉施設だ。そもそも、大邱市が1958年にホームレス福祉施設として設立し、80年からはカトリック大邱大教区が市から委託を受けて運営している。

 現在はリハビリ・介護施設、精神療養施設、肢体障害者居住施設などを備え、計1,150人を収容できるほどの規模となっている。なお希望院は、2014年まで6年連続で国から優秀福祉施設として選ばれており、06年には最優秀社会福祉施設として大統領賞まで受賞している。ただ、ここ数年、同施設内では入居者の不審死が頻発。過去2年8カ月の間に、収容者の10%に達する129人が次々と死亡した。

 今回、韓国のテレビ局SBSのルポ番組が、希望院の実態を独自に調査。その内部事情を告発した。番組は、希望院に入所していた男性に接触。男性からは、次のような証言が飛び出している。

「(ある部屋で)体を綱でくくられ、3日間くらい殴られ続けた。気絶すると起こされ、また殴られた。(中略)多い日では、1日に3人くらいが死んだ。1週間に5人程度は死んでいたと思う。(中略)死んでも、遺体はすぐに片付けられなかった。3~4日経過すると、遺体が傷む。ねずみに目を食べられていた遺体もあった」

 男性の証言によれば、希望院では入所者に対して日常的に監禁や暴行が行われていたという。また、障害者をスタッフの自宅に連れて行き、掃除や皿洗い、洗濯など家事に従事させていたという事実も語られた。さらに二重帳簿を作り、政府や市の助成金を着服していた疑いも浮上している。社会的弱者を保護するという名目の裏で、死亡者が出るほどの虐待人権蹂躙が行われていたというわけだ。

 現在、希望院に対して社会的な批判が殺到。国政監査(韓国国会での審問)でも、希望院の問題が取り扱われることが決定している。

 希望院側は「事実ではない部分と誇張された内容がほとんどで、少数の関係者による情報提供をもとに作られたもの」と釈明。「偏向した内容について残念に思う。真実を明らかにする」と主張している。

 過去に韓国では、兄弟福祉院事件が起きている。同院もホームレス収容施設だったのだが、内部では暴行や労働力搾取が横行。75~87年の12年間で、510名が死亡した。今回の希望院での不審死は、“第二の兄弟福祉院事件”になるのではないかと、危惧され始めている。

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2016.10.16   TOCANA

 


“ネガティブモデル”栗原類の告白。地獄のようなイジメに「青春なんてクソ食らえ!」と思っていた

2016年10月18日 02時34分16秒 | 障害者の自立

“ネガティブすぎるイケメンモデル”のキャッチコピーでブレイクした、モデルの栗原類さん。今月発売の新著『発達障害の僕が輝ける場所をみつけられた理由』では、自身の発達障害に向き合ったことで注目されている。

インタビュー前編では、ADD(注意欠陥障害)の告知・受容、アメリカと日本での支援体制の違いについて語っていただいたが、今回の後編では、過去のイジメ体験や、周囲から受けてきた支援を振り返りつつ、発達障害者特有の生きづらさを解消するためにはどうしたらよいかを伺った。

* * *

―「自分に興味がない」と言われていましたが、それはどういう意味でしょうか?

栗原 自分に興味がないというか、自分を認識できてなかったんです。僕は自分の内面の変化に注意を払って、意識を向け続けるのが難しいので、自分自身について認識できるようになったのは中学生くらいでしたね。自分に興味が湧かないのと同時に、他人に興味を持つのも難しいんです。

発達障害者はよく「空気が読めない」と言われますが、僕の場合は、相手の表情を見て、何を表現しているのかを読み取ることも苦手です。母と一緒に映画やドラマを観ている際に「このシーンはこういう気持ちを表しているんだよ」といちいち解説してもらわないと理解できない。他のことでも、母が何度も繰り返し指摘してくれて、ここ最近やっと「ああ、自分自身はここが問題なのか」って自覚できるようになったことがたくさんあります。

―お母様の泉さんの手記からは、日常生活でもかなり細部にわたってフォローされていたのがうかがえます。

栗原 母はよく「人生はマラソン、長い目で見守るのが大事」と言います。子育てでは、よく「1歳でもう歩けた」「○歳で言葉がしゃべれた」と、他の子供より早めに成長できることがよしとされがちですが、こういったことは焦らなくてもいずれはできるようになることだと。母は、「今すぐできなくてもいい、いずれできるようになればいい」という考え方だったんです。だから「どうして○○くんみたいにできないの」と、他の子供と比べて叱られたことは一度もありません。

―ちなみに栗原さんがADDの診断を受けた際に、泉さんも「あなたも典型的なADHD(注意欠陥・多動性障害)ですね」と診断されたそうですが。

栗原 本書でも母自身が書いているのですが、母の場合は、大人になるまで自分が発達障害って知らなくて、何度も失敗を重ねながら、健常者に追い付く努力を必死にしてきたそうです。だからこそ、僕には情緒面での基本をきちんと教えてあげたいという一心で、丁寧に説明してくれたようです。

―その手記からも、アメリカでは発達障害への支援が充実しているのに比べて、日本は未だに発達障害への理解が進んでおらず、“母親への風当たりが強い”ことが伝わってきます。

栗原 日本の発達障害への支援体制はアメリカの40年遅れと言われます。アメリカでは「発達障害児には、継続して支援をする義務がある」という考え方なので、親子ともどもサポートするのが当たり前でした。一方、日本では、支援が必要な子供でも見過ごされてしまう場合が多い印象です。

―見過ごされやすい、とは?

栗原 例えばですが、多動性が顕著で授業中に立ち歩いてしまうような子供は、教室でも目立つので気付かれやすい。でも僕のように目立った問題行動がない受動的なタイプの子供は放置されやすいんです。確かに僕は授業中、おとなしく座っていることはできましたが、先生の話を聞いても全く頭に入っていませんでしたから。なんらかの支援は必要でした。

―日本では、目に見える問題行動がなければ見逃され、放置されてしまうのが現状だと?

栗原 実は、小学生の頃から僕をイジメていた子供が、まさに発達障害を放置されていたコだったんです。

―主治医の高橋猛医師の手記に出てくる、多動性が強くて、明らかにADHDの可能性が高かったと書かれているコですね。

栗原 だから、高橋先生に「僕自身は早期に発達障害の診断を受けて、支援を受けて改善する環境にいる。それなのに、彼は発達障害を見過ごされて、なんの支援も受けないまま放置されているのはおかしい」って訴えたんですが、彼は結局、最後まで診断を受けないままでしたね。おかげで、僕は理不尽なイジメに耐えるしかなかったんです。

―その結果、一時期は不登校になったとか。

栗原 ええ、学校に行けなくて2週間くらい休んだこともあります。特に小学校5年生から中学校3年間は本当に地獄のような日々でした。普通の人が青春を楽しんでいる時期に、僕は「青春なんてクソくらえ!」と思いながら、サンドバックのように、ひたすら言葉の暴力に耐えていました。

―学校の教師は何も対処してくれなかったんですか?

栗原 日本の先生は何もしてくれませんでしたね。アメリカでは「生徒に問題が起きたら、先生はそれを解決する義務がある」という考え方なので、生徒同士でトラブルがあると、初期段階ですぐに先生が介入します。だけど日本では、先生にイジメを報告しても介入してくれない、「チクってるんじゃねーよ」となって、余計ひどくなるパターンが多いです。

―前述のイジメっ子のように、発達障害を見過ごされたまま成人する人も少なくないと思いますが、成人後でも診断を受けるべきと?

栗原 よく“診断されるのが怖い”とか“レッテル貼りになる”という声も聞きますが、僕自身は早期診断・支援の重要性を、身をもって実感しましたし、診断を受けないことには支援のスタート地点に立てません。少しでも「自分も発達障害なのかな?」って思うのだったら、まずは一度、医師の診断を受けたほうがいいのではないでしょうか。

―もっとも、診断を受けたからといって、職場や学校で理解が得られずに苦労している人もいます。ご自身はどのような考えで今のお仕事を選ばれたのですか?

栗原 そもそも僕は「会社員とか絶対無理」と思っていたんです。毎日同じ職場・人間関係の中でルーティーンを続けるのは、僕にとって苦痛でしかないですから。でも、芸能界は毎回違う現場に行って、違う人と会えて、程良い刺激が得られる。ぶっちゃけ、僕はこの業界でしかやっていけないんです。でも、だからこそ、どんなことがあっても今の仕事は続けたいですね。

―仕事面では、配慮をしてもらっているんですか?

栗原 実は以前、映画や舞台など、同時進行でお芝居の仕事を受けたことがあったのですが、僕はとにかく刺激に疲れやすいので、完全に容量オーバーに陥った結果、パニックになってありえないミスをしたことがあって。そういう状態になってから初めて、マネージャーも理解してくれたんです。それからは、お芝居の仕事をする時には、その時期にはその1本しかお芝居の仕事を入れない等、僕の許容範囲を超えないようにスケジュールを調整してくれるようになり、ずいぶん働きやすくなりました。

―最初から完璧に理解してくれたわけではなく、お互いに失敗や経験を重ねて…。

栗原 正直、最初の頃は自分の障害について説明して、弱点をさらけ出すことに抵抗もありましたけど、でも最近では「恥ずかしいからと隠すほうが恥ずかしい」と思えるようになりました。もちろん、いくら説明しても全員が全員、理解してくれるわけではありません。今でも時々「発達障害を言い訳にしている」「甘えだ」と言ってくる人もいますが、そんな声は無視すればいいんです。僕のような、パっと見でわかりにくい、“見えない”障害の当事者は、自分から周囲に理解を求めていく努力が必要なのだと思います。

―しかし、“できないことは無理にやらなくていい”ということになると、本人の可能性を奪ってしまうのではないか?という考え方もあるようですが。

栗原 僕は、自分の発達障害については、どんなに努力しても100%克服できるものではないと捉えていますし、大人になった今でもできないことはたくさんあるので、周囲にサポートを求めることは決して悪いことではないと考えています。

とはいえ、発達障害だから大目に見てもらおうというわけではないですよ。生活面や仕事面では、苦手なことであっても最低限はできるようになったほうがいい。無理がない範囲で少しずつチャレンジして、できることを増やしていくのがいいと思います。

―少しずつ挑戦して、諦めずに続けていくのが大切だと。

栗原 例えばですが、僕は手先が不器用なので洗濯物を畳むのも苦手で、Tシャツを5枚畳むだだけで疲れてしまったり、リサイクル用に牛乳パックをハサミで切り開くのも本当にできなくて「うう~~」ってなったりしていました。でも何十回、何百回と繰り返していたら、だんだんできるようになってきたんです。

だから10年前に比べたら、少しずつですが、できることは確実に増えています。発達障害者がどこまでできて、どこまでができないのか、見極めが難しいところですが、相性のよい主治医などを見つけて、家族や友人以外の視点から客観的にアドバイスしてくれる専門家の力を借りて、訓練していくのがよいのではないでしょうか?

―今回、本書を執筆されたことで、改めて気付いたことも多かったんでしょうか?

栗原 実は、前述のように僕は自分に興味がなかったので、子供の頃の出来事をほとんど覚えていなくて、本の完成が危ぶまれたほどだったんですよ。周囲の人からいろいろ話を聞いて、なんとか思い出して書けたんです。

今回、誰かに伝えるために文章を書いたことで、自分でも新たな発見がたくさんありました。本を書き終えた今、やっと自分自身に向き合えた気がします。今振り返ってみても、早期に適切な対応をしてもらえたのは本当にありがたかったですし、イジメでつらかった時期も、心から信頼できる友達や主治医の高橋先生、母の存在があったからこそ乗り越えられたと思います。

今だって、普通の21歳が100できることを、僕は10しかできないですが、環境を調整し、周囲の力を借りて訓練すれば、対処法を見つけることができますし、発達障害の生きづらさは、必ず解消できるものだと思います。

―まさにタイトル通り、『発達障害の僕が輝ける場所をみつけられた理由』ですね。本書では、過去4回におよぶ失恋話なども赤裸々に書かれていますが、将来のこと、特に結婚や仕事については、どう考えていますか?

栗原 僕は先のことを見通して、ゴールを設定するのが苦手なので、40年後の未来とか聞かれたって全くわかりません。今の仕事をずっと続けて、ゆくゆくは市村正親さんやクリストファー・ウォーケンのように、60歳を越えても芝居に対して貪欲な生き方をしていたいですし、観た人の心に爪痕(あと)を残せるような印象的な役者になりたい。

僕だって、いずれは結婚とか考えなくもないですが、人生は長いですから、あまり「○歳までにこうする!」とか前のめりにならずに、とりあえず「30代頃には仕事を安定させられたらいいな~」くらいのスタンスでいます。

―お話を伺うと、全然、ネガティブじゃないですね(笑)!

栗原 だから、僕自身は自分のことを「ネガティブ」だなんて言ったことは一度もないですよ。もう慣れましたけど、今でもそう言われるのはあまり好きじゃないです(笑)。

 2016年10月16日    週プレNEWS