ハンナ・アーレントの『全体主義の起原』(みすず書房)よりも、同じ著者の『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)のほうが、本文の字が小さいのにも関わらず、読みやすい。
『全体主義の起原』では、ユダヤ人が歴史的にいかに迫害されてきたか、モッブたち(教養がなく下層の乱暴者)とエリートたちが協力して、強圧的な全体主義体制をいかに作ったか、を記述している。
『イェルサレムのアイヒマン』では、何のとりえもない人間が、職をえるため、雪崩を打ってナチ党員になり、戦争やユダヤ人虐殺に積極的に のめりこんでいく さまを、アイヒマンの裁判を通して、描き出している。
副題に「悪の陳腐さ」をつけたのは、同じ行為が、虐殺されたものにとっては憎むべき「邪悪な」行為だが、虐殺する者にとってはなんの意味もない日常的な軽い行為であった、と彼女が知ったからだ。
アイヒマンはユダヤ人を強制収容所に輸送した責任者である。彼女が描き出したアイヒマンは、やる気が続かなく、頭も悪く、ユーモアもなく、どもることもある、嘘つきの社会的落伍者である。
同じく、ヒトラーも、高等教育も受けていず、兵卒長が唯一の職歴で、観客の前で大言壮語できることだけが取り柄の社会的落伍者であった。しかし、ヒトラーが落伍者から総統に成り上がったがゆえに、アイヒマンは、ヒトラーを自分の英雄として尊敬し、ヒトラーから命令を受けることを人生の至上の喜びとした。
そのアイヒマンが、ユダヤ人に興味をもちシオニストの著作を読み、ユダヤ人共同体の幹部とも接触していたために、ナチの組織の中で大出世をし、貧しいユダヤ人を、そのユダヤ人幹部の協力を得て、強制収容所に大量輸送する使命を得たのだ。
きょう、たまたま、Youtubeで昔のドイツ映画『メトロポリタン』(1927年)を見たが、地下に住む労働者を群衆として描写し、ひとりひとりを心をもつ人間として描かないのに驚いた。20世紀前半の高等教育を受けた知識人は、労働者との人間的接触がなく、大衆嫌いという生理的体質があったのではないかと思った。
ハンナ・アーレントは、『イェルサレムのアイヒマン』で、はじめて、大衆の中のひとりを、個人として記述したのでは、と思う。