猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

東畑開人の『居るのはつらいよ』ケアとセラピー

2019-09-29 21:48:56 | こころの病(やまい)

東畑開人の『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)では、最終章とそれ以前の章のほかに、「幕間口上」が2回ある。「幕間口上」では、物語を途切って、舞台裏を明かし、著者がなにかを解説するのである。

最終章の直前の「幕間口上」で、つぎのように著者は述べる。

「この本はね、タカスエ部長とかシンイチさんとかみたいにいろいろな登場人物が出てくるわけですけど、本当の主役はね、ケアとセラピーなんですよ。」

したがって、今回は、著者がケアとセラピーをどう考えてきたかを見てみよう。

第1章の見出しは「ケアとセラピー」である。そこで、京大ハカセはつぎのように述べる。

「セラピーが非日常的な時空間をしつらえて、心の深層に取り組むものだとすれば、ケアは日常のなかでさまざまな困りごとに対処していく。」

ここで「非日常的な時空間をしつらえて」とは「二人の人間が密室で話し合いを重ねて」ということである。

そして、京大ハカセ(物語の中の東畑)は「俺は一流のカウンセラーになって、臨床心理学を極めるのだ!」と叫び、沖縄に就職する。

フロイトに始まる精神分析では「意識」できる自己の下に「無意識」の自己があるとする。この「無意識」を「深層」と呼ぶ。

私から見れば、言葉で考えることで自分が意識できる「自己」と、観察者の力をえないと意識できない「自己」の区別にすぎないと思う。そして、セラピーによって発見された「自己」が本当だとは限らない。「無意識」という言葉は曖昧であるから、心理士の人たちは使用をやめた方が良いと思う。

私の若い頃、フランスの田舎町に越してきたセラピストが町の子どもをカウンセリングして性的虐待を受けていることを見出した。そして、町のほとんどの子どもたちが性的虐待を受けていることがわかり、町の親たちはみな訴えられ、裁判になった。結局、子どもは暗示に弱く、セラピストの発見は信用できないということで、親たちは無罪になった。

第2章では、京大ハカセは、沖縄の精神科クリニックに付設されたデイナイトケアで、何もしないでいられず、メンバー(利用者)の一人、ジュンコさんをセラピーする。

「何回かセラピーもどきをする中で、ジュンコさんはデイケアのメンバーやスタッフからも、自分は疎まれているのではないかと話すようになっていた。心の中にあった悪いものが、現実を汚染し、被害妄想が生まれ始めていた。そして、そうなってきたところでジュンコさんは、デイケアにいられなくなった。デイケアから離れた。」

ここで、心の深層の「悪いもの」とは、「忘れかけていた悪い思い出」だと思う。そして、京大ハカセは「心の深い部分に触れることが、いつでも良きことだとは限らない」と気づく。

第3章では、京大ハカセは、セラピーでは「深く傷ついたことで、コントロール不可能になった心を扱う」から「心に触れることに対して、とてもとても慎重」であるべきと考える。
第4章では、さらに、「デイケアで働くと同時に外来でセラピーの仕事をする中で、僕は『あえて』心の深い部分を扱わないセラピーをすることを始めていた」と京大ハカセは言う。

ここで「幕間口上」が挿入され、セラピーとは「非常事態➝新たな平衡状態」に時間がうまく流れをアシストすることで、ケアは「平衡状態」を保つことであるという。

精神科医療にかかわっている人は、暗黙に、「正常」と「異常」という考えをもっており、「異常=非常事態」を「正常=平衡状態」にもって行くと考えている。「アシスト」とは、セラピーで脳の中を直接いじることができないから、「自己回復力」あるいは「パーソナリティの成熟」に期待している、と言っているのである。

脳とは、神経細胞のシナプス接続で生じる複雑な回路で、セラピーでも薬でもつなぎ変えできないのだ。そして、最近の脳科学の実験でわかったことは、いったん、神経細胞のつなぎ変えでできた記憶は、非常に安定していて失われないのである。そこに外からの刺激の興奮がたまたま伝わることで、記憶が取り出されるのである。

すると、外からの刺激による興奮の流れがその記憶されている部分に行かないよう迂回路(新しい記憶)をつけるか、外の刺激を排除してしまうか、それしかないはずである。

新しい記憶が迂回路としてはたらくことを「新たな平衡状態」といってよい。

外の刺激を排除するとは、子どもの場合、いじめっ子を追い出すか、その学校に行くのをやめることである。私は、いじめっ子を追い出す方を選ぶ。いじめっ子が罰せられないと、子どもの心に傷をつけてしまう。心を傷つける行為をしておいて、カウンセリングで心を癒すことは無理である。会社や家庭でも暴力やいじめがある。原因を排除する、あるいは、排除するために戦うことが大事である。

最終章の「幕間口上」では、著者はつぎのようにいう。

「僕らはさまざまなニーズを抱えていて、それが満たされないと傷ついてしまうんです。」「ケアとはそのときどきのニーズに応えることで、そうやって、彼らの依存を引き受けること」「ケアとは傷つけないこと」

それに対して「セラピーでは『ニーズを満たすこと』ではなく、その『ニーズを変更すること』が目指されます。」「セラピーとは傷つきに向き合うことである。」

「ケアが依存を原理としているとするなら、セラピーは自立を原理としています。」「まずはケア。それからセラピーです。」

- - - - - - - - - - - - - - - -

さて、さて、「非日常的な時空間をしつらえて、心の深層に取り組む」セラピーとは、本当に必要なのか、有効なのか、私は疑問をもたざるを得ない。たんなる学術的興味で「クライアント」を実験台にしていることはないか。「自立」はセラピーによってしか促されないのか。

昔、カール・グスタフ・ユングの著作を読んだとき、自分の劣等感に他人を巻き込んでいるだけのただただ迷惑な人とユングを思ったことが、いま、思い出される。

言葉に頼る精神分析を私は信用しない。ユングは頭がおかしいと思っている。櫻井武は、「夢」が記憶の断片で意味がない、と言う。