猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ファシズムの到来を予感させる映画『メトロポリス』

2019-09-10 23:54:23 | 映画のなかの思想

『メトロポリス』(Metropolis)は、1927年に公開されたドイツのサイレント映画で、SF映画黎明期の傑作とされている。『スター・ウォーズ』に出てくるロボットC-3POは、この映画に出てくる女のロボット、アンドロイド・マリアをモデルとした、と言われている。

いっぽう、『タイムマシン』や『透明人間』を書いたSF作家のH. G. ウエルズは、愚かな(silly)映画と評した。

私は、『メトロポリス』を劇場で見たことがなく、YouTubeだけなので、映像についてコメントできない。ここでは、シナリオの観点から論じてみる。この場合でも、もとのバージョンが失われているので、その点でも、留保付きの感想である。YouTubeにはドイツ語版と英語版とがあるが、いずれも、Kino International (2010)のコピーのように思える。
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YouTube版『メトロポリス』を見ても、どのような社会を設定しているのか、私にはわからない。見てわかるのは、地上の世界と地下の世界と別れていることだけだ。
地下の世界には、労働者たち(workers)の住む住居がある。
地上の世界には、たくさんのビルがあり、役所があり、図書館があり、たくさんの自動車が走っており、「YOSHIWARA」というダンスホールがある。
問題は、選挙制度があるのか、職業の自由があるのか、公共の学校があるのか、社会制度がわからないことだ。

映画の主人公フレーダーは、地上の世界の主人フレーダーセンの息子で、男たちと走ったり、女たちとたわむれたりして、地上のビルの屋上で遊んで暮らすが、ある日、偶然、地下の世界から子どもたちを連れて上がってきたマリアを見て、一目ぼれをする。フレーダーがマリアを追って、地下の世界に降りるという冒険物語である。

このフレーダーセンは独裁者なのかどうか、わからない。ビルの最上階で事務員の前を行ったり来たりする、背広を着た男である。この男がメトロポリス全体の支配者だというイメージがつかない。銀行の頭取のように見える。

イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒトラー、ソビエト連邦のスターリンは軍服を着て、いかにも独裁者らしく、大衆の前に姿を現す。

しかし、フレーダーセンは大衆の前に姿を現すことはない。彼が支配者なら、大衆から見えない支配者である。

地下に住む労働者たちはエレベータに乗って、職場に来る。全員同じ制服を着て、うなだれて歩く。労働者たちは計器を見て必死で制御しているだけである。まるで、「京急」の運転士のようだ。仕事はどうもメトロポリスの火力発電機を制御しているという設定のようである。

マリアは、カタコンベ(地下の墓所)に労働者たちを集めて、メトロポリスの創造神話(バベルの塔)を話し、脳(HIRN)と手(HÄDEN)の仲介者(MITTLER)が現れるのを待つよう説教する。フレーダーはこの集会にくわわり、自分こそ仲介者だと思い込む。いっぽう、その場を隙間から目撃したフレーダーセンは、労働者たちが決起するのを防ぐため、マリアとそっくりの人造人間をつくって、労働者たちとマリアのなかを裂くように、科学者ロトワングに命令する。

科学者ロトワングは、フレーダーセンに復讐するため、にせマリア(人造人間)に、機械を破壊するよう、労働者たちを煽らせる。機械の破壊はメトロポリスの停電を導き、労働者たちの住む地下の住居をも水に沈める。

本当のマリアとにせのマリアの違いを、表情と動作、特に首の動きで演出している。

私には、ひとりの仲介者の出現を待つように教える本当のマリアも不気味である。暴動を起こす大衆も怖いかもしれないが、ひとりの仲介者に従順に従う大衆はもっと怖い。映画『メトロポリス』は労働者たちを没個性の大衆として描いているのだ。まさに、これこそ、ファシズム、ナチズム、スターリニズムの予兆ではないか。

ナチスの宣伝相ゲッべルスは、この映画を気にいり、ナチスの映画を作らないかと、監督のラングを誘ったといわれている。

映画『メトロポリス』は共産主義のメッセージを伝えている、とアメリカで批判された、とウィキペデイアにある。これが何なのか、わからないが、本当のマリアが語ったメトロポリスの創造神話で、バベルの塔の頂点に、“GROSS IST DIE WELT UND IHR SCHÖPFER UND GROSS IST DER MENSCH”と書くことを建設の目的だとしたことのような気がする。後半の意味は「人間たち(DER MENSCH)は偉大だ」という意味で、大衆の決起を促しているとも解釈できる。

映画は、メトロポリスの主人フレーダーセンと心臓部の機械の保守係のグロトとの握手をフレーダーが仲介することで終わる。次のメッセージがでる。

 MITTLER ZWISCHEN HIRN UND HÄDEN MUSS DAS HERZ ZEIN!
  (脳と手の仲介者は心臓(ハート)であるべし!)

私も、H. G. ウェルズが言ったように、この映画のシナリオを愚かだと思う。民主的だと言われるヴァイマル共和政時代に製作されたドイツ映画だが、大衆がその共和政に参加できていなかったことをうかがわせる。