猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

武士の出現は 国家の否定、天下統一は 自由の否定

2019-09-12 21:43:27 | 歴史を考える

昨日のNHK歴史ヒストリア『ここがスゴイ!承久の乱』で、武士にとって恩賞こそ闘う動機で、そのためには、勝ち馬に乗ることこそが、だいじであった、と言っていた。鎌倉幕府につくか、京の朝廷につくか、という問題にたいしてである。

すごく、さもしい話のようであるが、しかし、「国家のために死ぬ」「大義に殉ずる」よりずっと理性的である。「国家」とは何か、「大義」とは何か、考えずに、日中戦争や太平洋戦争に死んでいった人々はバカとしかいいようがない。本当にバカである。殺すべきは天皇ではないか、岸信介でないか、東条英樹ではないか。

ところが、NHK歴史ヒストリア『ここがスゴイ!承久の乱』の終わりには、勝海舟の次の言葉が出てくる。
「(北条義時は)自分の身を犠牲にして国家に尽くしたのだ。おれも幕府瓦解の時には、せめて義時に笑われないようにと幾度も心を引き締めたことがあったっけ。」

ここで意味不明の「国家」という言葉が出てくる。国家=秩序=権力の考え方で、どんな国家であっても良いことになる。これでは、日本の歴史は、乱暴者の争い「国盗り合戦」のように思えてきてしまう。

武士の出現は「国家の否定」、武士は自分の利益のために初めて戦った底辺の人々と考えたい。本郷和人によれば、鎌倉時代、室町時代の日本は二重政権国だったという。村も出現し、農村の自治が出現した。村人もどちらの側につけば、得をするか考えたという。権威に逆らった鎌倉仏教が広がったのは、この時代である。私自身は、私の出身地の北陸に、完全な農村自治があった、と思っている。

武士がつくった日本の二重政権体制が、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など武士自身の手によって終えられ、安定した単一政権体制にはいり、そのため、儒学が日本にはびこった。せっかく、日本に芽生えた自由、個人、反乱という思想が潰された。

明治維新は「国家の否定」「個人の自由」という肝心の思想を欠き、「尊王攘夷」の思想の下に「富国強兵」という「軍国主義」に突き進んだ。いまの安倍政権は、この「富国強兵」思想を引き継ぎ、憲法改正を唱え、トランプにヘコヘコし、韓国をいじめている。
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どうすれば自分の利益を守れるか、増せるかは、個人を意識するための一歩である。しかし、個人の利益は、互いに相反するかもしれない。

弱い者には、ホッブズの言うように、「《自然》は人間を身心の諸能力において平等につくった。…。たとえば肉体的な強さについていえば、もっとも弱い者でもひそかに陰謀をたくらんだり、自分と同様の危険にさらされている者と共謀することによって、もっとも強いものをも倒すだけの強さを持っている」が大切である。

弱い者は、個人の利益を守るためには、他人とつながること(団結という)を学ばないといけない。

ブレイディみかこが本で紹介した「ライフスキル教育」は、弱い者が「共謀」するための技術を学ぶために、日本でも必要だと思う。道徳教育は、強い者がますます強くなるための思想教育、独裁者に従順な大衆をつくるための洗脳である。

「ライフスキル教育」は、道徳教育との違って、まず、個人の権利を教え、ついで、相手の立場を理解し、着地点をみつけ、交渉することを教える。権力者に都合の良い価値観を教える道徳教育とは全く違う。