猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

東畑開人の『居るのはつらいよ』偏見と差別

2019-09-28 22:32:17 | こころの病(やまい)

東畑開人の『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)で、京大ハカセの言動のどこまでが創作で、どこから本音かわからない、人間には心の成長があるからだ。

本書では、最終章とそれまでの章で「居るのがつらい」の意味がちがう。ここでは、「それまでの章」の「居るのがつらい」を考えてみる。

ハゲの看護師ダイスケ部長が、初出勤の東畑に「トンちゃん」という名前をつけ、つぎのように言う。
「ということで、トンちゃん、とりあえず、あんたはそのへんに座っといてくれ」

ここで、京大ハカセのトンちゃんは、何もせずにデイケアのその辺で座っているのがつらく感じる。最初の「居るのがつらい」である。

「みんなが何かしら働いていて、『する』ことがあるのに、僕はただ『いる』だけ。すると、よからぬ考えに襲われる。一回り年下の医療事務の女の子と目が合うと、『あら、新種のシロアリさんかしら?何もしないで座っていて、私よりいい給料もらうのよね、素敵な穀潰しライフねぇ』と思われている気がする。」

ここで、ただ「いる」ことは、「働いていない」ことである。「働いていない」ことは悪いことだと世間は見る、と京大ハカセは思っている。

これは、会社で上司が不要なのに遅くまでいる心理と同じである。仕事がないのに、部下がみんな帰るのを見届けて帰ろうとする。そして、部下の目を恐れて働いているフリをする。

私は昔から働くことが好きでなかった。それは誰かの奴隷になることのように思えたからだ。ただ「いる」ということは僕にとっては苦痛ではない。じっさい、私はプータロウーをして、妻に養ってもらった。私は、それが普通だと思うが、京大ハカセはその逆で働かない人をバカにしていることになる。

そんな京大ハカセも、デイナイトケアに慣れてくると、働かないことに抵抗感がなくなる。

「『とりあえず座っている』とは『一緒にいる』ということだったのだ。そのとき初めて、僕はデイケアの凪の時間、魔の自由時間を居心地いいと感じた。自分がゆったりと、リラックスしていることを感じた。」

そして、そのことから、京大ハカセはつぎのように分析する。

「何かに完全に身を委ねているとき、『本当の自己』が現れる。無理なく存在している自分だ。そうすると、『いる』が可能になる。」

ここでは、もはや、「だだ『いる』だけ」を「働かない」と考えるのでなく、「何かに完全に身を委ねていること(依存)」で「無理なく存在している」と考えるようになる。

京大ハカセは、「ケア」とは「『弱さ』を抱えた人の依存を引き受ける仕事」と気づく。

そして、ケアという仕事を一段低くみることに、京大ハカセは憤慨する。ケアという仕事を世間が低く見るのは、専門性がないからと京大ハカセは思う。「それはまるで子供を世話するお母さんの仕事だ」と言う。

ここで、京大ハカセの「専門性」という言葉に、「お母さんの仕事」や「ケアする仕事」への偏見が、見えてくる。

NPOでボランティアする私からすれば、ケアの専門性をみんなが言い出し、「資格」が重要視されると、ボランティアができなくなるから困る。

「依存を引き受ける労働」の給料が安いのは、1つは、ごく最近、労働市場にはいってきた仕事だからと私は思う。現在の社会では、雇用者がその労働のサービスを市場で売ることができるから、給料を払えるのである。まだ、サービスを買う市場が成熟していないからである。

もう一つは、ケアという大事なサービスを「社会が福祉として買う」かたちになっているからである。現在の「福祉」の形では、ケアされる人たちやケアする人たちを、税金を払う国民が見ないで済むからである。見えないのものに人間は共感できないようにできている。

給料が安いのは、断じて専門性という問題ではない。

しかも、ケアとは難しい仕事なのだ。

著者は、「僕らはさまざまなニーズを抱えていて、それが満たされないと傷ついてしまう」のだと言う。だから、「ケア」サービスの利用者の「そのときどきのニーズに応えること」で「傷つけない」というのが難しいという。ケアする仕事を評価すべきと私も思う。

さて、京大ハカセのときどきの言葉は著者の創作なのか、それとも、著者の心の成長を正直に告白しているのか、私にもわからない。それは、どちらでも良いことなのだが、そのときどきに、学識者の言葉の引用で私は混乱させられる。「権威」をひけらかすのに、私は不愉快な思いをする。