猫じじいのブログ

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日本人の思想を求めて山川均の評伝を読む

2019-09-23 23:21:01 | 民主主義、共産主義、社会主義

日本人はいつから思想らしきものをもったのか。幕末の吉田松陰には思想らしきものはまったくない。彼はバカとしかいいようがない。暴力をふるう乱暴者、武士が、人民支配の儒学の知識をもとに、「尊王攘夷」に酔いしれているだけだ。

鎌倉時代に新仏教(仏道)運動が起きたから、そのときには思想らしきものが日本に一度起きたのであろう。残念ながら、徳川幕府の大弾圧で、思想として発展せず、途切れてしまう。親鸞、日蓮の思想、禅の思想も、明治時代以降の、西洋の思想に対抗する日本思想の再発見の流れのなかで、見出されたもので、断絶がある。

そういうことで、2012年NHK ETV特集『日本人は何を考えてきたのか』は、明治時代から始まる。すなわち、現在の私たちの思想は、明治以降、西洋の思想に触れることで、はぐくまれたとするわけだ。西洋思想を吸収する、あるいは、西洋思想に反発することで、日本人は自分の思想を築いてきたのだ。

そういう私は、じつは、日本の思想史にうとく、このNHK ETV特集をハー、へーと見ていた。

最近、ETV特集で覚えた名前の山川均の評伝がミネルヴァ書房から7月に出版された。読んでみて、明治後半から大正時代の日本人は、もう私たちと変わらぬ思想をもっていたこと、ずっと過酷な政治的環境に生きていたことに、自分の認識を新たにした。それは米原謙の『山川均 マルキシズム臭くないマルキストに』(ミネルヴァ日本評伝選)である。

山川均は1880年(明治13年)に倉敷で生まれた。同志社中学校に進学し、そこで、学内の争いに思うことがあって、1897年に中退している。山川の最初の西洋思想の受容はキリスト教なのだ。

米原謙は若いときの山川の軽はずみな性格をうまく描いている。若者は背伸びをするから、そんなものだろう。同志社中学校の中退もそうだが、満20歳で雑誌『青年の福音』の記事で不敬罪を問われ、3年近く牢獄にはいる。その内容は、皇太子の嘉仁(大正天皇)と九条節子との結婚式を、キリスト教徒が世俗に迎合して歓迎している、と皮肉ったものである。

米原はこれを「キリスト教的な人道主義とドロップ・アウトの反抗精神が入り混じった行為」と言い切る。私は「ドロップ・アウトの」がよけいだと思う。せめて「若者の」にしてほしかった。「反抗精神」は人類が新しい生き方を見出す原動力として必要なのだ。

とにかく、この時代は、帝国憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」のもと、結婚式を歓迎するキリスト教徒を茶化すだけで牢獄に入れられたのだ。ひどい話だ。これ以降、山川は、ずっと、警察の監視対象となる。その「おかげ」というか、米原は、山川の評伝を書くのに、特高の資料を利用できている。

さて、この時期、山川は、「熱烈なクリスチャンを自負」しながら、社会主義研究会にあこがれていたと米原はいう。社会主義研究会の発足時のメンバー11人のうち、幸徳秋水を除けば、全員がキリスト教徒であった。日本の社会主義は、キリスト教的人道主義から始まったと言えるだろう。

山川の生活を陰でサポートしたのは、彼の姉の夫、林源次郎である。この人も面白い人で、薬局経営とキリスト教会や慈善活動とを同時に進めていた。山川は、出獄した後、岡山に暮らし、マルクスの資本論を英訳で読み始める。そのころ、マルクスの名前を知っていても、ちゃんと資本論を読んだ人が日本にいなかったという。私は未だに読んでいない。私は厚い本を読めない。

1906年に日本社会党の結党が合法化され、山川は入党した。同じ年の12月に上京し、『平民新聞』の編集部員になる。堺利彦によれば、山川は雑務をいとわずコツコツと働いたという。軽はずみだが生真面目なのだ。

1908年に、山川は、堺とともに、また逮捕される。定例の社会主義金曜講演会を警官が中止、集会解散を命じたが、反発した堺は2階から身を乗り出し、外に向かって演説を始めた。この件で、堺、山川、大杉栄ら6名が、治安警察法違反で逮捕された。禁錮1月半である。

その同じ年に、電車賃上げ反対運動と関連し、一部の青年活動が赤旗をもって街頭に出て、山川は、警官との衝突を止めにはいり再逮捕される。禁錮2年である。

しかし、山川は牢獄にいたおかげで、1910年の幸徳秋水の大逆事件に連座しなかった。大逆事件で12人が死刑になっている。

山川は、大逆事件をへて、発言が慎重になり、著作を通して思想を述べるようになる。と同時に、米原の書いている内容も難しくなる。

山川はマルクス主義の第一人者と評されるようになるが、一方で、直接行動主義(暴力革命)でいくか、議会主義でいくかの問題、プロレタリア独裁でいくか、対立する政党にも自由を与えるかの問題、前衛党とは何かの問題に直面する。山川は共産党を結成するが、いったん解党し、労農派を結成することになる。

山川は、1917年から、吉野作造の民本主義を批判しはじめる。この批判は、民本主義が主権者は誰かを曖昧にしたままで、民衆のための政治をする点をついたものである。

それにしても、戦前の大日本帝国の時代は、政府が暴力的で、思想の自由、言論の自由、集会の自由を踏みにじっていたのにびっくりする。そんな戦前を称賛する安倍晋三はトンデモナイ男だ。