猫じじいのブログ

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聖書には禁欲という言葉がでてこない、マックス・ウェーバーの誤り

2020-08-25 22:28:54 | 宗教


Max Weberによれば、資本主義社会が出現するには、働くことが自分の義務だと考える労働者が出現することが要(かなめ)となる。その意味で、「禁欲的ピューリタンの倫理」が「資本主義の精神」となる。

ところが、聖書には「禁欲」という言葉がでてこない。
そもそも、「禁欲」というのは、ドイツ語の“Askese”の大塚訳である。 “Askese”に対応する古典ギリシア語は “ἄσκησίς”である。この語の意味は、「訓練」とか「鍛錬」とか「修行」である。
聖書には、“ἄσκησίς”の動詞形“ἀσκῶ”が、一度だけ、新約聖書の『使徒行伝』24章16節に出てくるが、新共同訳も口語訳も「努めています」と訳している。

〈こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。〉(使徒行伝24章16節)

そもそも、キリスト教とは、差別される者たちの反乱である。イエスは、それまでの社会の掟に逆らい、聖都エルサレムに攻め上った反徒のリーダーである。イエスの時代、ローマには、自由民の最下層プロレタリアと奴隷との区別があったが、属国には、しもべとと奴隷の区別がなかった。そして、彼らが社会の大半であった時代の、政治的な意識(民主主義)がない時代の反乱である。

Max Weberのいう「禁欲(Askese)」は個人的なものである。自分さえ救われればよいという考えからくる自己鍛錬である。救われるかどうかの「不安」からくる「脅迫症行動」である。

バートランド・ラッセルは、このキリスト教の変質を神学者アウレリウス・アウグスティヌスに帰す。ラッセルによれば、アウグスティヌスは子どものときの梨を盗んだことを罪としてしつこく悩んでいる、頭のオカシイ男である。この男が、キリスト教をローマ帝国の国教とするのに貢献したという。そして、性の快楽を理性の邪魔だと考えた。

ただし、その時代の教父にしろ修道士にしろ、妻帯はべつに禁じられる行為ではなかった。「修行」の妨げとか、そもそも、「修行」が必要だという考えさえも、なかった。

Max Weberと同時代の社会主義者カール・カウツキーは『中世の共産主義』(法政大学出版局)で、「禁欲」とは、社会がまだ豊かでない時代には、みんなが平等であることを願う人は、豪奢な生活を罪悪としたと言う。禁欲的ピューリタンは、それだけでなく、どこかに貧しくて不幸な人がいるから、自分たちの歓びや楽しみまで、それがごく他愛のないものまでも、罪悪と見た人々を言う。

カウツキーは、禁欲的ピューリタンはそれを他人にまで強制したので、農民や労働者から嫌われたという。同じことを、森本あんりは『反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体』 (新潮選書)で語る。アメリカでは、禁欲的ピューリタンは後から来た移民から嫌われた。

禁欲的ピューリタンには、初期キリスト教徒のもっていた「平等」の考えが欠けていた。「平等」とは、他人に苦痛を強要することではなく、共感から生まれる「喜びの共有」である。

エーリック・フロムが『自由からの逃走』(東京創元社)で批判していたように、カルヴァン派の「予定説」は人間が生まれながらにして格差があるとするものである。カルヴァンは、ジュネーブの富裕層に雇われた神学者で、アウグスティヌスの『神の国』から「予定説」を導いたという。

私には『神の国』があまりにも荒唐無稽で最後まで読めなかった。しかし、アウグスティヌスの言う「神の国(神の支配する国)」は教会のことで、現世のローマ帝国と両立できるものであった。ところが、カトリックを否定すると神の国がこの世に存在しなくなる。残された解釈は、「神の国」はまだ来ていなくて「革命」を起こすべきとするか、「神の国」とは死後の世界とするしかない。

15世紀、16世紀の北ヨーロッパは、農民や職人や商人による反乱が次々と起こったが、富裕市民層は革命を否定し、自分たちを肯定するためには、救われるものと救われないもの区別は神が恣意的に決めるという「予定説」に行き着くしかなかったと思う。

Max Weberの母、ヘレーネは、Maxと異なり、みんなが平等であることを願う人であった。Maxの妻は、つぎのように、ヘレーネのことを書く。

〈自分の安楽さのためにばかりあまりにも多くのことがなされて「他人のためには充分」してやっていないという気持ちにたえず さいなまれた。そこで彼女はできるかぎり自分の出費は倹約しはじめ、いままでならば人手を借りていたようなある種の家事をも自分で引き受けて余計な負担を増した――この「労賃」によってこっそりと貧者に施す資金をためようというのである。〉

ヘレーネは夫より桁違いの金持ちの娘だったが、夫は保守政治家で妻のお金を家長として管理した。しかも、ヘレーネの夫も息子も「平等」という考えが欠けている個人主義者だ。Maxの妻も「平等」という考えが欠け、ヘレーネに共感していない。「余計な負担を増した」とは、ヘレーネが「不要」なことをしているとMaxの妻が責めているのだ。

MaxもMaxの妻もクソだ。

「禁欲」が、貧しきもの弱きものへの共感を欠くなら、そのことにより、「禁欲は資本主義の精神」である。「資本主義」をぶっ壊さないといけない。