きのう、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』(岩波文庫)を借りてきた。アリストテレスはプラトンと同じく「節制」を徳目としていた。そして、気づいたことは「禁欲」が両者の著作に現われないことだ。
マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波書店)では「禁欲」が中心的課題だが、「節制」が現れない。
これは問題だ(Das Problem、ヴェーバ―への嫌味)。
じつは、これは翻訳の問題でもある。「節制」は古典ギリシア語で “σωφροσύνη”で、ドイツ語で“Mäßigkeit”である。「禁欲」は古典ギリシア語で “ἄσκησίς”で、ドイツ語で “Askese”である。
プラトンは“ἄσκησίς”という語を本当に使っていないが、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で一度だけ使っている。断片1170aでつぎのようにいう。
〈 γίνοιτο δ᾽ ἂν καὶ ἄσκησίς τις τῆς ἀρετῆς ἐκ τοῦ συζῆν τοῖς ἀγαθοῖς, καθάπερ καὶ Θέογνίς φησιν.〉
〈また、卓越性の或る訓練は、テオグニスも言っているように、よきひとびとと生を共にしていることによって可能となる。〉(高田三郎訳)
ここの “ἄσκησίς”は、「鍛錬」あるいは「修行」という意味である。これを、なぜか、日本で「禁欲」と訳すからおかしくなる。
マックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は第2章第1節でつぎのようにいう。
〈それ(Die christliche Askese)は、自然の地位を克服し、人間を非合理的な衝動の力と現世および自然への依存から引き離して計画的意思の支配に服させ、彼の行為を普段の自己審査と倫理的意義の熟慮のもとに置くことを目的とする、そうした合理的生活態度の組織的に完成された方法〉(大塚久雄訳)
“Askese”を「禁欲」と訳すから、ヴェーバ―が何か特別のことを言っているように聞こえる。また、ここの「自己審査」は“Selbstkontrolle”の訳である。「自制心」と訳せば、「節制」の別表現であることがわかる。
逆に「節制」にあたるドイツ語 “Mäßigkeit”も『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第1章第2節に、ベンジャミン・フラクリンの言葉として現れる。
〈勤勉と質素は別にしても、すべての取引で時間を守り法にたがわぬことほど、青年が世の中で成功するために役立つものはない。〉(大塚久雄訳)
ここの「質素」が“Mäßigkeit”の訳である。「節制」と訳したほうがピンとくるかもしれない。
「節制(Mäßigkeit)」は生活態度であり、「禁欲(Askese)」は意識的に自分の心を制御することである。
ヴェーバ―は、第1章で、ベンジャミン・フラクリンを「禁欲」の実践者とし、享楽に走らず、お金に執着する彼を、「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神」を結ぶリンクとして評価する。
ヴェーバ―と同時代の社会主義者カール・カウツキーは『中世の共産主義』(法政大学出版局)で、ローマ時代や中世のように生産力がない時代に、みんなが平等であることを願う人は、豪奢な生活を罪悪としたと言う。ところが、それだけでなく、どこかに貧しくて不幸な人がいるから、自分たちの歓びや楽しみまで、それがごく他愛のないものまでも、罪悪と見た人々がいた。それを禁欲的ピューリタン主義と彼は言う。
これに対し、ヴェーバ―は、「予定説(Prädestinations)」を信奉するカルヴァン派の「禁欲(Askese)」が、自分が救われるかどうかの確信が持てないことからくると、第2章で説明する。これでは、「禁欲(Askese)」は、強迫症の患者がする強迫行為のようである。
そして、ヴェーバ―は、この強迫行為こそ、資本主義の発展を促した精神であるとする。その理由は、神の恩恵に選ばれて救われるのは、個人的なことだからとする。すなわち、自分さえ良ければよいのだいう精神だ。ヴェーバ―は、バニヤンの『天路歴程』からつぎの話を引用する。
〈「クリスチャン」が「滅亡の町」に住んでいることに気づき、一刻も躊躇せず天国への巡礼に旅立たねばならぬとの召命を聞いてからあととった態度の描写を見るべきである。妻子は彼にとりすがろうとする。――が、彼は指で耳をふさぎ、「生命を、永遠の生命を!」と叫びながら野原を駆け去っていく。〉(大塚久雄訳)
ヴェーバ―はこれを「根本においてただ自分自身を問題とし、ただ自分の救いをのみを考えるピュウリタン信徒たちの情感を描き出した」と絶賛する。
これでは、禁欲的ピューリタンは強迫症であるだけでなく、人格障害となる。ヴェーバ―こそ頭がおかしいのではないか。(実際、彼は心を病んでいた。)
どこかにいる貧しくて不幸な人々に共感して、自分だけ豪奢な生活を送れないというのは、私はわかる気がする。しかし、「来世」で救われるかどうかの不安から、禁欲行為に走るのは本当かなと疑う。
「来世」「天国」「地獄」は聖書には出てこない考えだ。こんな話をするヴェーバ―は詐欺師ではないか。
だいたい、貧しい者、不幸な者は、「来世」がどうかなどを気にしない。死は、金持ちも貧しいものを区別せずに訪れる。もちろん、クーラーを購入できない者には早く死がくるかもしれない。それでも、死は永遠の休息である。
頭がおかしいマックス・ヴェーバーが日本で評価されるのは、彼が国家主義で権力者の太鼓たたきだからで、右翼的な日本の知識人に好かれるのだろう。
最後に、言い忘れたが、「平等のための節制」とともに「奴隷とならないための節制」も私は大事だと思う。この問題もいつか取り上げたい。