野口雅弘の『マックス・ウェーバー』(中公新書)でハッとした指摘は、Max Weberが心を病んだという事実である。そのことで、私も、多少、Max Weberに寛容になれる気もする。
フリードリヒ・ニーチェも、彼の『この人を見よ』(光文社古典新訳文庫)を読んで、統合失調症の前駆症状か双極性障害だと思った。与那覇潤の『中国化する日本』(文藝春秋)を読んだときも、テンションが高すぎる、心が病んでいると感じたが、あとで、双極性障害だったという彼の告白を読んだ。
「双極性障害」は「うつ」と「そう(躁)」を繰り返す心の病である。
野口は、つぎのように書く。
〈この病気について、ウェーバーは自ら、自己診断の手記を書いていたという。この手記を読んだのは、妻マリアンネと、哲学者であるとともに、精神科医でもあったカール・ヤスパースだけだった。しかも、ナチ・レジームの下で、ウェーバーの業績の全体が葬られることを恐れた妻によって、この手記は焼却された。〉
もったいないことだ。私も手記を読んでみたかった。論文を書ける時期と書けない時期があるから、現代の精神科診断では、双極性障害であろう。
野口は、「働きすぎ」が原因で、「父との大げんか」のあとに父が急死したことがトリガーであると書く。
「うつ」に関しては、よく、「働きすぎ」が原因だという。そうなのかもしれない。しかし、Max Weberの場合は、「うつ」ではなく、「そう」と「うつ」とを繰り返していたのではないかと思われる。「そう」のとき、単に「働きすぎる」だけでなく自分が絶対に正しいという信念から攻撃的になる。
「父との大げんか」で「そう」がピークに達し、それが父の死で終わり、「うつ」に転じ、論文もかけない、講義もできない状態になったのではと思われる。
野口は、Max Weberが病み上がりの時期に、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を書いたという。野口は、さらに、つぎのようにいう。
〈この論文は、禁欲的プロテスタンティズムと資本主義の連関を扱っている。かなり突飛な関連づけである〉
現在、私たちが読んでいる翻訳本『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、のちの『宗教社会学論集』第一巻を編む時点でかなりの加筆がなされたものである。だからこそ、それを否定するために、「発表当時のこの論文の、およそ内容的に重要な見解を述べている文章で、削除したり、意味を変えたり、弱めたり、あるいは内容的に異なった主張を添加したような個所は1つもない」との注が第一巻につけられたのである。
野口は、また、Max Weberの父と母は仲が良くなかったことをほのめかしている。私は、根本的な思想信条の相違ではないかと思う。父は官僚であり政治家である。父権を家庭内でふるっていたと思われる。母の祖先はフランスから逃げてきたユグノー(カルヴァン派)である。母の実家は父よりもずっと金持ちである。彼は、子どものときから、日常的に父と母のいさかいを見てきたのではないかと思う。
私のNPOでの経験から言うと、このような場合、子どもの価値観に分裂を引き起こし、心を傷つける。
Max Weberが病み上がりのとき、すなわち、「うつ」から「そう」に転じたとき、彼は、著作の中で、父の思想と母の思想を和解させようとしたのではないか、と私は思う。野口が言うように、「カルヴァン派の倫理」と「資本主義の精神」の統合は「かなり突飛」なことであり、誰もがびっくりしたのではないか。初期キリスト教と共産主義との関連を追っている者からは、Max Weberが新しい宗教を創作しているように見えたと思う。
この「父と母」との和解の観点から、Max Weberの著作を見ると面白いと思う。
なお、Max Weberの言っていることもニーチェの言っていることも、正しくない。その反対が事実に近いと思う。