猫じじいのブログ

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マックス・ウェーバーの宗教理解に 彼の母が泣いている

2020-08-13 21:55:13 | 宗教


私は、2日前に、ブログにつぎのように書いた。

〈Max Weberの言うカルヴァン派のドグマも、彼の母から引き継ぎ、彼の父の権威主義と和解させた、彼の信仰である。〉
〈Weberは、「無教養な下層の大衆(Masse)」という感じ方を父親から引き継いで、母のカルヴァン派の教えを解釈した。〉

しかし、野口雅弘の『マックス・ウェーバー』(中公新書)をもう一度読むと、Max Weberの母がカルヴァン派のドグマを信じていたのか、また、彼が彼女の信仰と彼の父親の権威主義とを和解させようとしたか、どちらも疑わしい。

Weberは、父親の立場(支配層の代行者としての官僚的立場)から、宗教を理解することで、父と母の葛藤が引き起こした自分の心の病をなおそうとしたのでは、と私は考える。すなわち、Weberは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を書くことで、母親の信仰を否定し、現世を肯定するカルヴァン派を創作し、父親的なものに勝利させたかったのでは、と疑う。

野口は、Weberの母ヘレーネについてつぎのように書く。

〈ヘレーネはウィリアム・エラリー・チャニング(1780~1842)の本を愛読していた。……。チャニングはユニテリアンの神学者だった。ユニテリアンはキリスト教における三位一体論を否定し、神の単一性を主張した。このためイエス・キリストはあくまで人間だと考えられた。そして彼らは正統派カルヴィズムの予定説にも対立した。〉

ところが、Weberは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、「正統派カルヴィズムの予定説」こそが近代の資本主義の礎を造ったとする。彼は、たくさんのプロテスタントの諸派の名前を挙げているが、自分の博学を印象づけるためだけである。チャニング(William Ellery Channing)もユニテリアン(Unitarismus)も、彼の書にでてこない。ルターやカルヴァンによらないプロテスタンティズムがあったことも無視している。

野口によれば、Weberが21歳のとき、母ヘレーネに、つぎの手紙を送って、平和主義者のチャニングを否定している。

〈職業軍人たちを人殺しの一味と同列に置き、公衆の軽蔑の烙印を押されたものとみなそうとすれば、いったいどんな道義の高揚が生まれてくるというのか、わたしにはまったくわかりません――そんなことをしたら、戦争はけっして人道的なものにはならないでしょう〉

私は、Weberの言う「人道的戦争」を想像できない。

母ヘレーネはどんな女性だったか。野口は、Weberの妻の証言を載せている。

〈彼女はできるかぎり自分の出費は倹約しはじめ、今までならば人手を借りていたようなある種の家事をも自分で引き受けて余計な負担を増した――この「労賃」によってこっそりと貧者に施す資金をためようというのである。夜ベッドについても、あたたかい寝所をもたぬ大都会の数十万の人口を思うと彼女は肉体的に苦痛を感じた。〉

このヘレーネの気持ちに私は共感してしまう。

なお、「余計な負担を増した」という表現はわかりくいが、「余計な」はWeberの妻からみた思いで、「負担」は「ヘレーネ自身の負担」という意味だと思う。

野口は、『マックス・ウェーバー』(中公新書)の第5章で、Weberの『宗教社会学』を紹介している。これを読んで、私は、Weberの宗教理解がとても変だと思う。

Weberは、1つは、現世肯定か現世否定か、で宗教をわける。その意図が不純だと思う。ここでの「現世」は “Welt”の日本語訳である。自分を取り巻く世界のことである。すべての宗教は、「現世」に苦しむ人のためにあるから、「現世」をなんとかしようとしているのである。

ところが、Weberのいう「現世の肯定」は「現世」の規範を受け入れるかどうかである。すなわち、強者のためになるか、支配者層のためになるか、という視点から宗教をみているのである。これは、母ヘレーネの思いに反する。

Weberのもう1つの視点は、禁欲か、神秘的合一か、である。母ヘレーネの「禁欲」にかりたてる思いは、自分だけが豊かで良いのか、自分のもっているものを貧者と分かち合えないのか、である。すなわち、「禁欲」のための「禁欲」ではなく、分かち合うための「欲望の抑制」である。

これは「共産主義」の本質である。「共産」は「生産手段の共有」ではなく、「財産の共有」である。

カール・カウツキーは『中世の共産主義』(法政大学出版局)で、もともと、キリスト教が社会の下層民の運動であって、その後、何度も共産主義的傾向を示すが、そのつど、支配層から弾圧され、教会上層部から異端とされてきたと記す。

また、共産主義的運動を展開したリーダーは、みんなの信頼を勝ち取るために自己の欲望を抑えた。禁欲的な行動規範を示した。Weberの主張する禁欲とはまったく異なる。

人の苦しみをほっとけず、その重荷を受け止め、自分の喜びを分かち合うのが、宗教であったと思う。いまは、それを「政治」の課題としないといけない。Weberは宗教を「統治」の道具としてしか見ていない。

新約聖書『マルコ福音書』10章42節~44節
〈そして、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、諸国の民の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 
しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 
いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。〉