猫じじいのブログ

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日本だけで評価されるマックス・ウェーバー、没後100年

2020-08-08 22:15:29 | 思想


私はMax Weberが嫌いである。東大法学部教授の宇野重視が「知の巨人」と7月25日の朝日新聞に書いていたが、「知の巨人」とは「頭でっかち」の意味であろうか。Max Weberはアカデミズムが偉そうにする時代に登場してきたお坊ちゃんである。私はアカデミズムも嫌いである。東大の法学部もなくなればよい。

Max Weberの死後100年の企画として、2つの評伝が、中央公論新社から野口雅弘によって、岩波書店から今野元によって、出された。2つの評伝の書評を、6月14日に読売新聞に東大教授の苅部直が、7月25日に朝日新聞に東大教授の宇野重視が、書いている。

ちなみに、横浜市図書館は、野口雅弘の評伝を8冊購入し、今野元の評伝を2冊購入した。両方とも予約したが、今、私の手元に届いたのは野口雅弘の評伝のみである。

私が、Max Weberを、なぜ、嫌うかというと、彼が権威的であり、闘争的であり、民主政に否定的であり、私の学生時代、共産主義やアナキーが嫌いな学生たちがMax Weberをヨイショしていたからである。すなわち、書評で苅部も宇野も指摘するように、彼はドイツ・ナショナリストである。彼は、専門家による国家支配を主張する者である。

Max Weberの Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismusの大塚久雄訳、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波書店、1988)の「著者序言」を読んで、

「発表当時のこの論文の、およそ内容的に重要な見解を述べている文章で、削除したり、意味を変えたり、弱めたり、あるいは内容的に異なった主張を添加したような個所は1つもない」

に笑ってしまった。内容的に重要な見解を述べていなければ、「削除したり、意味を変えたり、弱めたり、あるいは内容的に異なった主張を添加してよい」と言っているのである。Max Weberの言葉は戦闘的だが、いつでも、言い訳ができるよう、限定句がついているのだ。

1988年の岩波本には、大塚の訳者解説が載っている。そこで、大塚は「私はこの本を大学を卒業した1930年に読んだのですが、むずかしくて良く分かりませんでした」と書いている。

じっさい、Max Weberは、わかりにくい文を書く。文章が屈折しているのである。私のような理系の人間は、わかりにくい文章を書いてはいけないと教えられる。知識は人類の共有財産であるから、誰が読んでもわかる文章を書かかないといけない。ところが、Max Weberは他人から批判されることを恐れ、どうにでも言い訳ができるよう、限定句をつけたり、意図をぼかしたり、主張を妙に屈折させる。これが、Max Weberがクソのような人間の証拠である。

政治学や政治史や社会学に「客観的学問」は成立しえない。「客観」は見せかけである。

Max Weberは、 Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismusを書いて、わざわざ、アドルフ・フォン・ハルナックに送っている。ハルナックは、初期キリスト教の精神をもう一度現代によみがえらせようとした聖職者である。いっぽう、Max Weberは、生まれながらの格差を神の思し召しとするカルヴァン派のドグマを、資本主義の精神と合っていると、ヨイショとする。

資本主義の精神とあっているとなぜ良いのか。そんなものに合理的な根拠がない。
Max Weberは競争によって経済が発達すると考え、財の平等や共有を否定する。しかし、経済が発展すれば良いのか。経済発展なら、今、中国は加速度的に発展している。しかし、量よりも、平等かを問題にしないといけない。また、物質的だけでなく、人間社会が互いの共感と敬意によって支えられないといけない。

いま、野口の評伝を読み始めているが、野口はちゃんとMax Weberを批判している。少なくても、ふたりの東大教授の書評よりマシである。

今野は、過去に、『東京大学法学部のドイツ政治史研究』で、実証にもとづかない欧米から評価されない縁故人事が幅を利かせる東大法学部を批判している。その今野は、どういう視点で、Max Weberを批判するのか、今から、楽しみにしている。東大教授の宇野や苅部よりまともであると期待している。