10日前に書いたように、私はMax Weberが嫌いである。
理由その1は、私の学生時代、彼の書は右翼学生の愛読書であった。
理由その2は、定年退職後、Max Weberの書を読んでみたが、屈折した書き方をしており、主張があいまいで、自己弁護に徹している。東進ハイスクールの林修によれば,東大の文系教師(法学部教授のこと)もそういう書き方をするらしい。理系の教育では論文は明快でなければだめで、屈折した書き方は許されない。
理由その3は、右翼的な政治スタンスがゆるせない。すなわち、知識を鼻にかけ、上から目線で、支配構造を肯定する。Max Weberは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第2章第1節の注に「もし「民衆」»Volk«という概念を無教養な下層の大衆(Masse)の意に解するならば」と書き込んでいる。
野口雅弘の『マックス・ウェーバー』(中公新書)を読むと、Max Weberの書や彼の妻の書いた『マックス・ウェーバー』の細かいところまで野口は読みこんでいる。そのような細かいことがわかって、どうして、Max Weberに優しくできるのか、私には不思議である。また、大塚久雄の翻訳の誤りや誤読に対しても優しすぎる。
Max Weberが心を病んでいたということは、野口の書ではじめて知った。私は双極性障害だと思うが、人格も少しおかしい。1920年版の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の表題の注に
〈発表当時のこの論文の、およそ内容的に重要な見解を述べている文書で、削除したり、意味を変えたり、弱めたり、あるいは内容的に異なった主張を添加したような個所は1つもない〉
とあるが、1920年の版では、注とテキストが同じ量になっている。発表当時の論文は手にしていないが、注が長い量になっているのは弁明のためである。15年間に主張が変わらぬことを自慢するより、間違いを認めて訂正するのが、理系の私から、誠実な研究者の立場と思う。
屈折した論理構造を取っ払えば、Weberは、ルターの聖書翻訳の語 “Beruf”に触発されて、「使命としての仕事」の考え(Gedanke)が、資本主義の精神的な推進力になったとする。産業経営者だけでは、資本主義の発展はなく、労働者がみずから「仕事人」となろうとしたからと主張する。そして、労働者がみずから「仕事人」となろうとしたのは、カルヴァン派の予定説や禁欲的プロテスタンティズムの教育の結果だとする。
そして、Weberは、
〈労働者もこの規範に適応できず、あるいは適応しようとしない場合には、必ず失業者として街頭に投げ出されるだろう〉
とほざく。
論文の構成からすると、ルターの訳語 “Beruf”をもとに展開したのに、ルター派の批判に流れて込んでいる。整合性に欠ける。
また、キリスト教研究の立場からすると、Weberと同時代に起きた、史的イエス研究、初期キリスト教復帰運動、自由主義神学をまったく無視している。また、彼の母が愛読した本の著者ウィリアム・エラリー・チャニング(ユニテリアン派)をも完全に無視している。
野口の『マックス・ウェーバー』を読んで知ったのは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、じつは1904年と1905年に分けて雑誌に発表され、その間に、Weberは、13週間にわたり、夫婦でアメリカを旅行している。その結果、第1章(1904年の書)では誇らしげに資本主義社会の勝利を歌い上げ、第2章(1905年の書)では資本主義社会の未来を暗い雰囲気で書いて終わる。Weberの気分の変調が起きている。
これに対し、1988年大塚版の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の注では、原書の注に「1904/1905」とあったものを、間違いとして、「1905」と訂正している。
野口は、大塚訳の誤りをいたるところで訂正している。たとえば、“Beruf”を1988年版では「天職」としたのを「仕事」に、“Gehäuse”を「檻」としたのを「外衣」にしている。私も、大塚訳の誤り、“Industrielle (Kaufleute, Handwerker)”を「産業人(職人や手工業者)」と訳しているのを見つけた。“Kaufleute”が「商人たち」で “Handwerker”が「職人」である。
面白かったのは、野口がつぎのように書いていた。
「ウェーバーの祖母エミーリエの父カール・コルネリウス・スーシェーは「禁欲的プロテスタンティズム」を体現した人というよりは、「冒険資本家」的な実業家であったようなので、この人が『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の実在するモデルとはいえない。」
私の祖父も、小学校を終えると、新潟の田舎から歩いて東京に出て、自分の店をもつにいたった。私の母は、祖父が嫌いで、私の前で、投機的な商売人だから、詐欺師にだまされるのだ、とののしっていた。祖父は、まさに、「冒険的商人」として、「丁稚」から一代で「旦那」になったのである。市場が拡大しているとき、「冒険的資本家」のほうが成功するのである。
Weberの描く資本主義の勃興は、彼の社会的立場に都合の良い、歴史の偽造である。
野口のWeberや大塚にたいする限りのない優しさは、私の「社会学」への不信を増す。
事実の偽造を許し、支配構造を肯定する「社会学」は不要である。