台風11号が去った後、しばらくは涼しい日が訪れたかと思っていたら、また残暑さが戻ってきた。百日紅(サルスベリを変換するとこうなります、漢字表記は花木の植物的形態、読みは樹木の比喩からきているみたいでおもしろい)が日差しに揺れて咲いている。昨日の夕刊に、生産が途絶えていた国産の線香花火が関係者の努力によって復活してきた記事が掲載されていて、ちょっとうれしくなった。百日紅の花弁の細かいヒダヒダがそよ風に揺れているのを見るとその線香花火を連想してしまうのです、わたくしは。
11日は幕末明治期に活躍した落語家の三遊亭圓朝(1839-1900)忌で、この時期なら怪談話でおなじみ、子どもの頃祖父が圓朝全集本をもっていたのを記憶している。というわけで、その二日後に圓朝墓石がある都内谷中の全生庵までかけてきた。
地下鉄千駄木駅を降りて、ゆるやかな三崎坂をのぼっていくと左手途中に、臨済宗全生庵はある。門を入って本堂右手に勝海舟書の巨大な山岡鉄舟居士碑がどーんと建っている。明治維新の憂国の士の功績と人徳が長々と刻んであり、昨今歴代の右寄りとされる時の首相が参禅する由縁だろう。
その奥の境内の圓朝墓を尋ねると八月の圓朝まつりの始まりにあたって落語協会からの供花台がたっていた。先日のNHKの夜ニュースで、桂歌丸師が国立演芸場中席で恒例の圓朝作怪談話を口演するにあたって、ここを墓参する様子が映されてもいた。改めてみると、圓朝墓石隣には初代から四代までの三遊亭円生墓も建っており、その由縁は知らないが、ここは日本の芸能史あるいは落語界の神聖なる精神が宿っているトポスであって、そんなことの積み重ねの場所にいままさに自分が立っていることを想う。
墓参のついでのお目当ては、本堂横の部屋で行われている展示会、圓朝が創作の参考にコレクションしていたといわれる幽霊絵の見物。有名無名作家を問わず、水墨画の掛け軸約40点が陳列されていた。あきらかにおどろおどろしいものは意外と少なくて、身体をあからさまに出すことのない着物姿がかえってじんわりと恐怖を考えさせるように迫ってくる、とでもいえばいいのだろうか。これを見て落語口演を聴くと、いっそう臨場感が増すのではないかしら。
せっかくだから、旧初音町あたりを抜けて谷中銀座を通っていくことにした。途中、中規模の新しいホテルや旅館ができていて、外国人や若者の姿が目立ってくる。以前訪れたときの活気はあるがやや鄙びてのどかな印象とはどうも少し違う。横丁から老舗らしき御茶店舗にはいるとその印象はさらに深まり、谷中銀座通りは浴衣姿の若い女性もチラホラ、にぎやかな軒先が連なっていて言い古された言い方だが“ディスカバー・ジャパン”の世界に目を見張る。もしかしたら、外国人旅行客には有名な場所なのかもしれない。
通称“夕焼けだんだん階段”を上って振り返る商店街の連なりとその先の町並みの眺めがなかなかよいのです、とくに名前のとおり夕方の頃は郷愁漂う昭和の雰囲気らしい。そのまままっつぐ(江戸言葉で)歩くとJR日暮里駅、右手には広大な谷中墓地が拡がる。線路を跨ぐ陸橋の先、かつて駄菓子問屋があったあたりは再開発されて、高層マンションに様変わりしていた。しばらく訪れないうちに街並みは変わってしまっていて、ちょっとした浦島太郎状態に陥ってしまう。

欅板に力強く揮号篆刻された“全生庵”額。明治16年(1883)、鉄舟により建立されたというから意外に新しい。
庵の文字の上が“草冠”のように見えるのは、草庵からはじまったということ?
11日は幕末明治期に活躍した落語家の三遊亭圓朝(1839-1900)忌で、この時期なら怪談話でおなじみ、子どもの頃祖父が圓朝全集本をもっていたのを記憶している。というわけで、その二日後に圓朝墓石がある都内谷中の全生庵までかけてきた。
地下鉄千駄木駅を降りて、ゆるやかな三崎坂をのぼっていくと左手途中に、臨済宗全生庵はある。門を入って本堂右手に勝海舟書の巨大な山岡鉄舟居士碑がどーんと建っている。明治維新の憂国の士の功績と人徳が長々と刻んであり、昨今歴代の右寄りとされる時の首相が参禅する由縁だろう。
その奥の境内の圓朝墓を尋ねると八月の圓朝まつりの始まりにあたって落語協会からの供花台がたっていた。先日のNHKの夜ニュースで、桂歌丸師が国立演芸場中席で恒例の圓朝作怪談話を口演するにあたって、ここを墓参する様子が映されてもいた。改めてみると、圓朝墓石隣には初代から四代までの三遊亭円生墓も建っており、その由縁は知らないが、ここは日本の芸能史あるいは落語界の神聖なる精神が宿っているトポスであって、そんなことの積み重ねの場所にいままさに自分が立っていることを想う。
墓参のついでのお目当ては、本堂横の部屋で行われている展示会、圓朝が創作の参考にコレクションしていたといわれる幽霊絵の見物。有名無名作家を問わず、水墨画の掛け軸約40点が陳列されていた。あきらかにおどろおどろしいものは意外と少なくて、身体をあからさまに出すことのない着物姿がかえってじんわりと恐怖を考えさせるように迫ってくる、とでもいえばいいのだろうか。これを見て落語口演を聴くと、いっそう臨場感が増すのではないかしら。
せっかくだから、旧初音町あたりを抜けて谷中銀座を通っていくことにした。途中、中規模の新しいホテルや旅館ができていて、外国人や若者の姿が目立ってくる。以前訪れたときの活気はあるがやや鄙びてのどかな印象とはどうも少し違う。横丁から老舗らしき御茶店舗にはいるとその印象はさらに深まり、谷中銀座通りは浴衣姿の若い女性もチラホラ、にぎやかな軒先が連なっていて言い古された言い方だが“ディスカバー・ジャパン”の世界に目を見張る。もしかしたら、外国人旅行客には有名な場所なのかもしれない。
通称“夕焼けだんだん階段”を上って振り返る商店街の連なりとその先の町並みの眺めがなかなかよいのです、とくに名前のとおり夕方の頃は郷愁漂う昭和の雰囲気らしい。そのまままっつぐ(江戸言葉で)歩くとJR日暮里駅、右手には広大な谷中墓地が拡がる。線路を跨ぐ陸橋の先、かつて駄菓子問屋があったあたりは再開発されて、高層マンションに様変わりしていた。しばらく訪れないうちに街並みは変わってしまっていて、ちょっとした浦島太郎状態に陥ってしまう。

欅板に力強く揮号篆刻された“全生庵”額。明治16年(1883)、鉄舟により建立されたというから意外に新しい。
庵の文字の上が“草冠”のように見えるのは、草庵からはじまったということ?