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まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

明日館講堂三枚おろしの秘密って?

2014年11月03日 | 建築
 霜月に入って最初の日曜日午後、自由学園明日館講堂を訪れるために、目白駅から徒歩で川ビレッジ前の通りから住宅街を通り抜けて、西武池袋線を渡ってしばらく行く。九月末にシルクロードゆかりの楽器による演奏会を聴きに来て以来の変わらず落ち着いたたたずまい。よく晴れた秋空の下、本館前の芝生広場に沿った通り沿いには、四本の大きなソメイヨシノが気持ちよさそうに枝を拡げていて、そよ風に揺れた葉がすこし色づき始めている。

 「明日館講堂と遠藤新」と題された講演会、この秋から耐震補強工事に入る前の粋な計らいの催しにはせ参じたのは、建築家の遠藤現(遠藤新の四男萬里の子息)氏と関澤愛(長女うららの子息で東京理科大学教授)両氏が登壇されるので。関澤氏のことは現さんから伺っていたけれど、てっきり女性だと思っていたら、さにあらず都市防災研究の専門家でいらして、ユーモアのある調子で祖父遠藤新の人となりを語って下さった。とくに大学卒業直後の東京駅中央停車場についての辰野金吾に対する批判文をめぐるエピソードが象徴的。

 現さんは、遠藤家子息唯一の建築家らしく、F.L.ライトとの出会いから始まって、帝国ホテル、甲子園ホテルというふたつの遠藤が設計に関わった都市ホテルについてスライドを交えてわかりやすく紹介していた。とりわけ移築された旧帝国ホテル正面玄関ロビー部分については、この八月明治村で対面してきたばかり。正面入口を入っていくと低い天井からいきなり三階部分まで吹き抜けとなるホワイエの劇的な空間構成と、回廊周辺の精緻で魔術的でもある装飾の印象が強く残っていたこともあって、ふたたび追体験をさせてもらったような心持ちがした。1893年シカゴ博覧会での鳳凰殿を体験しているライトが得たであろう建築上のインスピレーションについても、現さんから指摘されるとさらに興味深い気がする。
 また、帝国ホテル玄関前の宇都宮産大谷石とスクラッチタイルで作られた人口池(もともとは睡蓮が植えられていた)が、東洋的な印象の視覚効果も考えられたものではあったんだろうと想像していたが、防災用にも置かれていたと聞き、目からウロコが落ちる思いがした。事実、竣工直前の関東大震災では、防火用水の役目も果たしたという。

 さらに話は自由学園本館と講堂にも及び、本館周囲の大谷石敷がそのまま内部をつなぐ廊下にまで使用されているのは、内外のつながりを意識したものとの説明に休憩時間あらためて本館を巡ってみる。正面旧ホール食堂部分と両側に翼のように伸びた教室部分のうち、向かって左の西側がライト自身の設計により1921(大正10)年に竣工し、東側部分はライトが1922年に帰国した後、30代の遠藤新が引き継いで関東大震災後の1925(大正14)年に竣工していることを今回初めて詳しく知った。この事実を踏まえれば、自由学園明日館は文字通り二人の合作となることが納得される。また通りの向かい側にあって、本館の意匠の調和に考慮された講堂については、遠藤の単独設計により、1927(昭和2)年に竣工している。
 あらためて本館食堂からホールを見下ろしてみると暖炉の配置といい、空間のつながり具合といい、同時期に竣工している帝国ホテルや葉山加地別邸との関連性がわかってじつに興味深く、ライトと遠藤新はこの時期一心同体という感を改めて感じる。現さんはその共有性について、ふたりが日米の違いががあってもともに地方出身で、幼いころの牧場や農業体験つまり自然や大地とのつながりにあるだろうと推察されていたが、まったく同感である。

 最後に三枚おろしの秘密について、これは講堂や教会などの大空間を必要とする建物の構造について、雑誌「婦人の友」で語っていたことを指す。遠藤新の一般家庭向け主婦への建築に対する熱意とユーモアの一端を感じさせるコトバだろう。要するに中央平土間大空間部分と両側高土間部分からなる空間構成と構造について、魚の調理法(さばき方)にたとえて説明したもので、遠藤新の建築論の代名詞とでも呼べるようなもので、目白が丘教会の内部もぜひの目で見て確かめたい思いが募ってくる。

 帰り道は、山手線沿いの通称F.L.ライトの小道を再び目白駅まで歩く。目白通りがJR山手線をまたぐめじろ橋の脇には間もなくオープンの四階建て商業ビル“MEJIRO TRAD”、夕暮れの駅舎の向こうに新宿の高層ビルの灯り、振り返れば池袋駅周辺のビルの合間にサンシャインシティの姿。大正からイッキに大都会の夜の情景が広がっていく、これから郊外のわが家まで約一時間ほど、自分の存在に小さくため息。