週末土曜日の早朝、小田急線が藤沢に到着するすこし手前のJR東海道線を跨ぐ鉄橋からは、ちょうどビルの間にのびた鉄路の遥か先に、白き冠雪をいだいた富士山の姿が望める。JR東海道線に乗り換えて、8時52分発熱海行きに乗車すると、この先の車窓からは進行右手方向に富士山を眺めながらの風景を愉しむことができる。平塚を過ぎるとその姿はいったん湘南平に隠れてしまうが、大磯を経て國府津を出るとすぐ足柄の山並みの先に、大きくクローズアップされた真白な山頂が再び顔を出してくれる。それが鴨宮あたりではさらに迫力が増したところで、まもなく小田原に到着した。小田原からは、しばらく相模灘の眺めに見とれながら、根府川、真鶴、湯河原ときて県境を越え、泉越トンネルと三つの短いトンネルをすぎるともうそこが熱海である。
目指すは大観山麓にひろがるMOA美術館、20数年ぶりの来訪か。駅からバスでわずか10数分程度上った場所なのに、文字通り俗塵から離れて、相模灘を一望する世界救世教の天上聖地巡礼である。美術館入口前広場の右手には、教団本部である救世会館の真っ白な巨大な建物。あたりにはチリ一つなく奇妙ななくらいの清潔感が漂う。にこやかに迎えてくれるスタッフはみなさんおしなべて親切、おっとりとした感じの方ばかり。宗教らしさや教団の宣伝臭などいっさい感じられないのが逆に不思議なくらいだ。美術館入口から続く山中トンネル内に設けられた長大なエスカレータ―を数台乗り継ぐと、ようやく美術館本体のエントランスに到着する。この序奏はなかなかのもので、これから体験するであろう至上の芸術世界への期待感?と浄化作用をいやがおうにも高めさせてくれる前戯のようでやや大げさだけれど生物の体内を通過するような恍惚感に包まれる。
エントランスから一度外に出て、ヘンリー・ムアの彫刻「王と王妃」が展示された屋外広場に出ると、正面に伊豆大島が浮かぶ見事な眺望、この高さからは熱海市街はことさら隠れて見えない、絶景である。そこに据えられたムアの彫刻自体はさほど感心しないが、青空と紺碧の海を臨む建築環境の中では映え渡っていて、白洲正子が「MOA美術館を見て」(1982=昭和57年4月)で思いのほか好意的に述べていることが実感を持ってうなずける。ここからは、大階段が本館二階へとつながり、見上げる高低差も威圧感がなく見事だ。本館は薄ベージュ色のインド砂岩を割り肌仕上げで囲った四角い箱を横につなげた形状で、右側の立方体には海に向かって大きく四面のガラスとなっている。三階建ての上品で豪華な建築だけれど宗教色は感じられない。竹中工務店と鹿島建設の設計施工で1982年の竣工。
一階美術館の入口に戻り、エスカレーターで二階のメインロビーへ、ここで入場券を購入していよいよ展示室へと向かう。展覧会名称「光琳アート」には、「尾形光琳300年忌記念特別展」とあり、尾形光琳(1658-1716)の過去100年、200年忌の歴史をふまえての構成である。今回の展示の目玉は、なんといっても、「燕子花」と「紅白梅図」屏風が同時公開されることで、これって皇太子ご成婚を記念した1959年=昭和34年の根津美術館での開催以来56年ぶりだそう。56年ぶりっていうことは、ちょうど自分が生まれて現在までの年数と重なるわけで、ちょっとした偶然にして感慨深い。しかもこの梅の季節にそのふたつを対面させて展示する粋な計らいに心動かされた!
はじめて見る本物、300年以上たっているので、当然描かれた当時と異なり、背景の金箔や川の流れをあらわす泥銀もくすんで渋い風情である。当時の自然のひかりの具合でみた印象を想像すると、現在の経年による全体の深まりがいっそうおもしろい。また「燕子花」が描かれたのは、光琳40代のころ、「紅白梅」は晩年の60代と推定されるそうで、そんな年代の違いも興味深くて見飽きることがない。しかも日本画なのに、構図の巧みさを“デザイン”の視点からたたえられるあたりが光琳のモダン性なのだろう。白洲正子くらいになると、随筆においてこの有名作品にはほとんど触れることがないが、手垢にまみれていない独自の見方を伝えてもらいたい気がする。
ひとしきり展示ケースをよく見ると「紅梅梅図」屏風の下には、紅白の梅の花ビラが散らばっておかれている。ちょっと粋な演出と思っっていたら、こちらのほうは、現代アーティストの須田悦弘の光琳画とコラボした作品であることを後で知った。この展覧会のもうひとつのおもしろさは、琳派の系譜を現代美術に探っていていること。なるほど、チラシをよく見ると小さく「光琳と現代美術」と書かれてはいるけれど、あまり前面には出ていないのは、美術館運営母体の教団の奥ゆかしさか?こちらのほうが現代人には興味をひく点で、今回企画の特質といえるだろう。
教祖の岡田茂吉は、若きころ茨城県五浦にあった日本美術院の岡倉天心を訪ねた折り、「これから日本美術再興には、光琳の再生が必要だ」とのことばを聴きとっていたそうで、この事実には驚かされた。まさしく岡倉天心の意志が、今回出品されている現代美術作品とつながっていて、彼の予言した歴史的流れの正しさを証明しているかのようだ。福田平八郎「漣」、加山又造「紅白梅」「群鶴図」、田中一光の一連のグラフィックアート、村上隆、会田誠、福田美蘭などの作品に琳派の影響を重ねてみると、日本美術における無意識下の水脈を感じ取ることができるだろう。
やはり特別なのは、高解析デジタルカメラで撮影されたという杉本博司の「月下紅白梅図」屏風と「華厳滝図」掛け軸表装の二点。以前、その撮影風景をNHKがドキュメント放送していて月光下の華厳滝はさもありなん、だが「紅白梅」のほうは意表を突かれた感じがした。光琳屏風図は梅の枝姿の構図と花の紅白の対比の印象が強くて、暗闇では白が浮かんでさて赤はどんなものだろうと思ったからだ。それが杉本の「月下紅白梅図」では、赤も白と同じように薄明かりのように闇に浮かんでいた。これは、おそらく心象風景に近いものなのかもしれない。ここではデジタルモノクロ精密画像を伝統的な屏風仕立てと掛け軸表装にしたところがミソで、静謐な闇の中に凛として馥郁とした香りがあたり一面に漂うかのようだ。
最後にひとつ、「紅白梅図屏風」の中央の川の流れ、もともとは群青の川面に流れ模様を銀で描いたものが年月により酸化して現在の色調に落ち着いたのだろう。この川の流れ、わたしには不遜かもしれないが、農家の軒先にできた「スズメバチの巣」の表面模様とそっくりのように見えてしまった。そして光琳の描く川辺には“あえて”なのか、草木がいっさい省略されて描かれていないのはなんだか奇妙な感じもするが、どうしてなのだろう。より水面のながれをシンプルに様式化して表したかったのだろうか。いずれにしてもこれは都市生活者の視点であり、江戸にして現代につながる光琳のモダン性を感じるのである。
相模灘のさきに正観音浄土か、伊豆方面を眺望する。
聖地巡礼。熱海の世界救世教水晶殿(設計:岡田茂吉、あの山田守を彷彿させる)、海も空も紺碧のひとこと。
付記:夕暮れの県立小田原高校訪問記
熱海の帰り道、小田原で下車してお堀端の市民会館小ホールで「宮廷音楽への招待状」を聴く。チェンバロとヴァイオリンの共演で、中野振一郎さんのトークが大阪人らしく軽妙洒脱で、なかなか愉快かつ優雅な演奏会だった。
演奏会の余韻を引きずりながら、お堀端を歩いて馬出門から城址公園に入り、いまが見頃の紅白梅を眺めて歩く。そこから報徳神社の横の坂を上り、競輪場の先の県立小田原高校まで歩いてみる。明治時代創立で県下の名門校、先代の校舎は現在のグランド側にあったらしくほとんど建替えられてしまって当時の面影は少ないようようだが、体育館と武道場だけは当時のままだろうか。戦国時代はこの八幡山と呼ばれる校地が小田城の中心だったとの説明板が建っていた。高台にあるグランド端からは、相模の海が臨める素晴らしいロケーションで、訪れた時は野球部の練習中だった。正門前を通りかかると長い歴史と伝統を伝える校訓碑、さて校章のモチーフは何の植物だろうか。
夕暮れの闇が迫りつつある中、球庭場横の通称“百段阪”階段を下り、城山中学校脇を抜けると新幹線ホームの端が見えてきた。ここから小田原駅はもうすぐだ。エスカレータをのぼり、コンコース内売店で家へのおみやげに、ようやく念願の箱根湯元の和菓子店ちもと謹製の「湯もち」を買って帰る。
(2015.02.15初校、02.17改定)
目指すは大観山麓にひろがるMOA美術館、20数年ぶりの来訪か。駅からバスでわずか10数分程度上った場所なのに、文字通り俗塵から離れて、相模灘を一望する世界救世教の天上聖地巡礼である。美術館入口前広場の右手には、教団本部である救世会館の真っ白な巨大な建物。あたりにはチリ一つなく奇妙ななくらいの清潔感が漂う。にこやかに迎えてくれるスタッフはみなさんおしなべて親切、おっとりとした感じの方ばかり。宗教らしさや教団の宣伝臭などいっさい感じられないのが逆に不思議なくらいだ。美術館入口から続く山中トンネル内に設けられた長大なエスカレータ―を数台乗り継ぐと、ようやく美術館本体のエントランスに到着する。この序奏はなかなかのもので、これから体験するであろう至上の芸術世界への期待感?と浄化作用をいやがおうにも高めさせてくれる前戯のようでやや大げさだけれど生物の体内を通過するような恍惚感に包まれる。
エントランスから一度外に出て、ヘンリー・ムアの彫刻「王と王妃」が展示された屋外広場に出ると、正面に伊豆大島が浮かぶ見事な眺望、この高さからは熱海市街はことさら隠れて見えない、絶景である。そこに据えられたムアの彫刻自体はさほど感心しないが、青空と紺碧の海を臨む建築環境の中では映え渡っていて、白洲正子が「MOA美術館を見て」(1982=昭和57年4月)で思いのほか好意的に述べていることが実感を持ってうなずける。ここからは、大階段が本館二階へとつながり、見上げる高低差も威圧感がなく見事だ。本館は薄ベージュ色のインド砂岩を割り肌仕上げで囲った四角い箱を横につなげた形状で、右側の立方体には海に向かって大きく四面のガラスとなっている。三階建ての上品で豪華な建築だけれど宗教色は感じられない。竹中工務店と鹿島建設の設計施工で1982年の竣工。
一階美術館の入口に戻り、エスカレーターで二階のメインロビーへ、ここで入場券を購入していよいよ展示室へと向かう。展覧会名称「光琳アート」には、「尾形光琳300年忌記念特別展」とあり、尾形光琳(1658-1716)の過去100年、200年忌の歴史をふまえての構成である。今回の展示の目玉は、なんといっても、「燕子花」と「紅白梅図」屏風が同時公開されることで、これって皇太子ご成婚を記念した1959年=昭和34年の根津美術館での開催以来56年ぶりだそう。56年ぶりっていうことは、ちょうど自分が生まれて現在までの年数と重なるわけで、ちょっとした偶然にして感慨深い。しかもこの梅の季節にそのふたつを対面させて展示する粋な計らいに心動かされた!
はじめて見る本物、300年以上たっているので、当然描かれた当時と異なり、背景の金箔や川の流れをあらわす泥銀もくすんで渋い風情である。当時の自然のひかりの具合でみた印象を想像すると、現在の経年による全体の深まりがいっそうおもしろい。また「燕子花」が描かれたのは、光琳40代のころ、「紅白梅」は晩年の60代と推定されるそうで、そんな年代の違いも興味深くて見飽きることがない。しかも日本画なのに、構図の巧みさを“デザイン”の視点からたたえられるあたりが光琳のモダン性なのだろう。白洲正子くらいになると、随筆においてこの有名作品にはほとんど触れることがないが、手垢にまみれていない独自の見方を伝えてもらいたい気がする。
ひとしきり展示ケースをよく見ると「紅梅梅図」屏風の下には、紅白の梅の花ビラが散らばっておかれている。ちょっと粋な演出と思っっていたら、こちらのほうは、現代アーティストの須田悦弘の光琳画とコラボした作品であることを後で知った。この展覧会のもうひとつのおもしろさは、琳派の系譜を現代美術に探っていていること。なるほど、チラシをよく見ると小さく「光琳と現代美術」と書かれてはいるけれど、あまり前面には出ていないのは、美術館運営母体の教団の奥ゆかしさか?こちらのほうが現代人には興味をひく点で、今回企画の特質といえるだろう。
教祖の岡田茂吉は、若きころ茨城県五浦にあった日本美術院の岡倉天心を訪ねた折り、「これから日本美術再興には、光琳の再生が必要だ」とのことばを聴きとっていたそうで、この事実には驚かされた。まさしく岡倉天心の意志が、今回出品されている現代美術作品とつながっていて、彼の予言した歴史的流れの正しさを証明しているかのようだ。福田平八郎「漣」、加山又造「紅白梅」「群鶴図」、田中一光の一連のグラフィックアート、村上隆、会田誠、福田美蘭などの作品に琳派の影響を重ねてみると、日本美術における無意識下の水脈を感じ取ることができるだろう。
やはり特別なのは、高解析デジタルカメラで撮影されたという杉本博司の「月下紅白梅図」屏風と「華厳滝図」掛け軸表装の二点。以前、その撮影風景をNHKがドキュメント放送していて月光下の華厳滝はさもありなん、だが「紅白梅」のほうは意表を突かれた感じがした。光琳屏風図は梅の枝姿の構図と花の紅白の対比の印象が強くて、暗闇では白が浮かんでさて赤はどんなものだろうと思ったからだ。それが杉本の「月下紅白梅図」では、赤も白と同じように薄明かりのように闇に浮かんでいた。これは、おそらく心象風景に近いものなのかもしれない。ここではデジタルモノクロ精密画像を伝統的な屏風仕立てと掛け軸表装にしたところがミソで、静謐な闇の中に凛として馥郁とした香りがあたり一面に漂うかのようだ。
最後にひとつ、「紅白梅図屏風」の中央の川の流れ、もともとは群青の川面に流れ模様を銀で描いたものが年月により酸化して現在の色調に落ち着いたのだろう。この川の流れ、わたしには不遜かもしれないが、農家の軒先にできた「スズメバチの巣」の表面模様とそっくりのように見えてしまった。そして光琳の描く川辺には“あえて”なのか、草木がいっさい省略されて描かれていないのはなんだか奇妙な感じもするが、どうしてなのだろう。より水面のながれをシンプルに様式化して表したかったのだろうか。いずれにしてもこれは都市生活者の視点であり、江戸にして現代につながる光琳のモダン性を感じるのである。
相模灘のさきに正観音浄土か、伊豆方面を眺望する。
聖地巡礼。熱海の世界救世教水晶殿(設計:岡田茂吉、あの山田守を彷彿させる)、海も空も紺碧のひとこと。
付記:夕暮れの県立小田原高校訪問記
熱海の帰り道、小田原で下車してお堀端の市民会館小ホールで「宮廷音楽への招待状」を聴く。チェンバロとヴァイオリンの共演で、中野振一郎さんのトークが大阪人らしく軽妙洒脱で、なかなか愉快かつ優雅な演奏会だった。
演奏会の余韻を引きずりながら、お堀端を歩いて馬出門から城址公園に入り、いまが見頃の紅白梅を眺めて歩く。そこから報徳神社の横の坂を上り、競輪場の先の県立小田原高校まで歩いてみる。明治時代創立で県下の名門校、先代の校舎は現在のグランド側にあったらしくほとんど建替えられてしまって当時の面影は少ないようようだが、体育館と武道場だけは当時のままだろうか。戦国時代はこの八幡山と呼ばれる校地が小田城の中心だったとの説明板が建っていた。高台にあるグランド端からは、相模の海が臨める素晴らしいロケーションで、訪れた時は野球部の練習中だった。正門前を通りかかると長い歴史と伝統を伝える校訓碑、さて校章のモチーフは何の植物だろうか。
夕暮れの闇が迫りつつある中、球庭場横の通称“百段阪”階段を下り、城山中学校脇を抜けると新幹線ホームの端が見えてきた。ここから小田原駅はもうすぐだ。エスカレータをのぼり、コンコース内売店で家へのおみやげに、ようやく念願の箱根湯元の和菓子店ちもと謹製の「湯もち」を買って帰る。
(2015.02.15初校、02.17改定)