休日の朝に、NHKEテレ「日曜美術館」で「佐野元春・鳥取への旅 世界的写真家の魅力」(どうやら、これが正式のタイトルらしい)を見た後、小田急線から地下鉄を乗り継いで、都内神保町まで出る。改札の階段を上って交差点に出ると、はす向かいに10階建ての岩波ビルが見える。その一階はみずほ銀行、最上階が岩波ホールで、その日はここでグルジア映画「ピロスマニ」を観ることにしていたのだけれど、午後からの上映開始まであと一時間ほどある。
昼食のお店を探そうと一度すずらん通りを通りぬけ、横丁に入った老舗喫茶「さぼうる」は定休日、少々がっかりしながら再び交差点に戻り、さらに水道橋方面に歩き出してから戻ってきて、結局すずらん通りの古くからありそうなロシア料理レストランに入る。席についてランチセットを注文すると、すぐにピンク色のスープとサラダが出てきて、メインはグラタンのようなもの。さっぱりとしたデザートがついていた。コーカサス山脈の南になるグルジアはたしか旧ロシア領だから、あらかじめ意識していたわけではないのに、映画を観る前の食事としてはなかなかのものだろう。
上映開始の時間ちょうどよい頃に十階のホールへ。このホールへ足を踏み入れるのは本当に久しぶりで、前回がいつだったか思い出せないでいたが、ロビーのたたずまいと場内の雰囲気はまったく変わっていないように見受けられる。かつてここで映画を見る体験自体がスノッブな感じが漂っていて、それはいまも同じだろう。当時はそれが嫌味にも感じられたが、逆にぶれないその姿勢がいいなと思える自分がいた。
かつて一度見たことのあるこの映画そのものは、静謐で淡々とした美しい映像が印象的で心に残っていた。それから約三十年以上たっての再見がはたしてどのようなものが、密かに期待をしていた。はたして、控えめな色彩もそうだし寡黙なセリフにグルジアの町や草原の風景、人々の暮らしの様子、民族音楽とすべてに押しつけがましさがなく、変わらずよかったのである。いわゆる素朴なナイーブ派の系譜に連なるピロスマニの絵画は、この映像とよく調和していて、じつに好ましかった。
「ピロスマニ」を観て、故郷出身の画家を偲び、そのひと横尾茂のエピソードについて記したい。
二週間ほど前の新潟に帰省した際に、たまたま近くの宿泊施設“月影の郷”で開催されていた同郷の画家の回顧絵画展の看板を偶然に目にして、あっと思ってしまった。おそらく相当の苦労しながら好きな絵の道を歩んだその人生が、ピロスマニの姿と重なるような気がしたのだ。いったいこの片田舎出身の画家、横尾茂という人と作品ははどのようなものかひどく興味をそそられて、実家から目と鼻の先にある会場に足を運んだのだった。
会場の旧小学校体育館に入ると、受付の男の方はどうも故人の親族であるらしい。その先の移動式ボードで区切られたスペースに30数展の絵画が並べられていた。最初は「父」と題された油彩の人物画、なんとも重々しい色彩とタッチ、青木繁を連想した。1970年前後の作品から独特の抽象度の比重が高まってきたらしく、「季の唄」(1974年)は、冬枯れと思われる山の情景を茶褐色をベースに有機的な曲線で描いている。1977年の安井賞受賞後、横尾茂は公的な場所への作品提供の機会に恵まれるようになり、78年にまほろ市民ホール緞帳原画を制作とあるが、これはこの画家が市内小野路在住だったことがあるのだろう。どんな作品なのか、ホールを訪れた機会にぜひ拝見してみたいものと思う。
さらにこの画家のプロフィールに目を通すといろいろと興味深い。昭和八年に旧安塚村横住に八人兄弟の七番目として生まれ、小学校の先生の影響で描くことが好きになったそうだ。家業の農業を手伝いながら二十歳まで過ごした後に上京し、お茶の水にある文化学院美術科を卒業して辛苦を重ねた末に、五十歳をすぎてから安井賞を受賞したとある。そのことでようやく一般に名が知られ、画業で生計を立てていくことが可能になったらしい。1996年の村役場落成のさいには、「曙」と題された妙高山をモデルにしたのであろうか、黒味を帯びた赤色で力強く山肌を現した500号の大作、2001年の月影小学校閉校にあたっては記念校歌碑(作詞:相馬御風)を制作している。そうか、そうだったのか!
全体的な絵の作風は、土くれ色を変化させた具象と抽象のあいだのような地味な印象である。雪国なのにあえて白を避けているのは何故か。北国の人間にとって天から降り続く白い雪に対する心情は複雑なものがある。とくにこの画家の少年時代であればなおさらで、ひたすら“忍”の一文字で表わせられる長い季節だと実感されるから。よくもまあ、けっして楽ではなかったであろう日々の暮らしのなか、専門学校である文化学院に進んで、辛苦して画家の道を歩まれたものだ。おそらくそこに雪国から抜け出す唯一の夢を描くことができたからだろう。大正自由教育の流れを汲み、建築家でもあった西村伊作によって創立された文化学院は、いまもお茶の水明治大学の近くに健在※で、都会派の裕福な子息が学ぶイメージがある自由教養主義を標榜する学校に地方の農家出身のせがれが学んだことも、わたしにとってはちょっとした驚きであった。
最後に安井賞受賞した直後のこの画家が雑誌取材の折に記したという言葉をひいておく。
「故郷は山間で段々畑のような田んぼばかりの山里である。だから故郷を描くとなると固定した場所を描く気になれず、どうして(も)その風土とそこに住む人達を思う。すべてのものが茶褐色に枯れ果て、暗い空から灰を思わせる雪、止むことを知らぬように降り続ける粉雪の冬を待つ晩秋、それを好んで描く。(中略)少年期をだだっ子のように過ごした山河と人々の中にある種の風貌を感じさせる人間像が私の心の中に深く沈着し、人々の表情が私の画想を豊かにしてくれた。」
なんだか少しさびしくもほっとした気持ちにもなる不思議な心情、これは昭和の時代を過ごした雪国の同郷の人間であれば、なおいっそう身に染みて感じる言葉だ。大人になって振り返ると、幼少を過ごしたけっして豊かではなかったはずの寒村の故郷をなつかしく慈しみをこめて思い出すのだろう。県境に近い多摩境にある小野路の里もそのような雰囲気が当時はまだ濃厚に残っているところだったからこそ、この画家が終いの棲家に選んだのではないだろうか。このひとは、つつましくもささやかな幸せをつかんだのだろう、なんともいえない気持ちになって、その人生を表わす言葉にしばし戸惑う。
(2015.12.16初校、12.25改定、26再改定)※註:学校経営を巡っていろいろあったようで、つい最近に両国近くに移転した。
昼食のお店を探そうと一度すずらん通りを通りぬけ、横丁に入った老舗喫茶「さぼうる」は定休日、少々がっかりしながら再び交差点に戻り、さらに水道橋方面に歩き出してから戻ってきて、結局すずらん通りの古くからありそうなロシア料理レストランに入る。席についてランチセットを注文すると、すぐにピンク色のスープとサラダが出てきて、メインはグラタンのようなもの。さっぱりとしたデザートがついていた。コーカサス山脈の南になるグルジアはたしか旧ロシア領だから、あらかじめ意識していたわけではないのに、映画を観る前の食事としてはなかなかのものだろう。
上映開始の時間ちょうどよい頃に十階のホールへ。このホールへ足を踏み入れるのは本当に久しぶりで、前回がいつだったか思い出せないでいたが、ロビーのたたずまいと場内の雰囲気はまったく変わっていないように見受けられる。かつてここで映画を見る体験自体がスノッブな感じが漂っていて、それはいまも同じだろう。当時はそれが嫌味にも感じられたが、逆にぶれないその姿勢がいいなと思える自分がいた。
かつて一度見たことのあるこの映画そのものは、静謐で淡々とした美しい映像が印象的で心に残っていた。それから約三十年以上たっての再見がはたしてどのようなものが、密かに期待をしていた。はたして、控えめな色彩もそうだし寡黙なセリフにグルジアの町や草原の風景、人々の暮らしの様子、民族音楽とすべてに押しつけがましさがなく、変わらずよかったのである。いわゆる素朴なナイーブ派の系譜に連なるピロスマニの絵画は、この映像とよく調和していて、じつに好ましかった。
「ピロスマニ」を観て、故郷出身の画家を偲び、そのひと横尾茂のエピソードについて記したい。
二週間ほど前の新潟に帰省した際に、たまたま近くの宿泊施設“月影の郷”で開催されていた同郷の画家の回顧絵画展の看板を偶然に目にして、あっと思ってしまった。おそらく相当の苦労しながら好きな絵の道を歩んだその人生が、ピロスマニの姿と重なるような気がしたのだ。いったいこの片田舎出身の画家、横尾茂という人と作品ははどのようなものかひどく興味をそそられて、実家から目と鼻の先にある会場に足を運んだのだった。
会場の旧小学校体育館に入ると、受付の男の方はどうも故人の親族であるらしい。その先の移動式ボードで区切られたスペースに30数展の絵画が並べられていた。最初は「父」と題された油彩の人物画、なんとも重々しい色彩とタッチ、青木繁を連想した。1970年前後の作品から独特の抽象度の比重が高まってきたらしく、「季の唄」(1974年)は、冬枯れと思われる山の情景を茶褐色をベースに有機的な曲線で描いている。1977年の安井賞受賞後、横尾茂は公的な場所への作品提供の機会に恵まれるようになり、78年にまほろ市民ホール緞帳原画を制作とあるが、これはこの画家が市内小野路在住だったことがあるのだろう。どんな作品なのか、ホールを訪れた機会にぜひ拝見してみたいものと思う。
さらにこの画家のプロフィールに目を通すといろいろと興味深い。昭和八年に旧安塚村横住に八人兄弟の七番目として生まれ、小学校の先生の影響で描くことが好きになったそうだ。家業の農業を手伝いながら二十歳まで過ごした後に上京し、お茶の水にある文化学院美術科を卒業して辛苦を重ねた末に、五十歳をすぎてから安井賞を受賞したとある。そのことでようやく一般に名が知られ、画業で生計を立てていくことが可能になったらしい。1996年の村役場落成のさいには、「曙」と題された妙高山をモデルにしたのであろうか、黒味を帯びた赤色で力強く山肌を現した500号の大作、2001年の月影小学校閉校にあたっては記念校歌碑(作詞:相馬御風)を制作している。そうか、そうだったのか!
全体的な絵の作風は、土くれ色を変化させた具象と抽象のあいだのような地味な印象である。雪国なのにあえて白を避けているのは何故か。北国の人間にとって天から降り続く白い雪に対する心情は複雑なものがある。とくにこの画家の少年時代であればなおさらで、ひたすら“忍”の一文字で表わせられる長い季節だと実感されるから。よくもまあ、けっして楽ではなかったであろう日々の暮らしのなか、専門学校である文化学院に進んで、辛苦して画家の道を歩まれたものだ。おそらくそこに雪国から抜け出す唯一の夢を描くことができたからだろう。大正自由教育の流れを汲み、建築家でもあった西村伊作によって創立された文化学院は、いまもお茶の水明治大学の近くに健在※で、都会派の裕福な子息が学ぶイメージがある自由教養主義を標榜する学校に地方の農家出身のせがれが学んだことも、わたしにとってはちょっとした驚きであった。
最後に安井賞受賞した直後のこの画家が雑誌取材の折に記したという言葉をひいておく。
「故郷は山間で段々畑のような田んぼばかりの山里である。だから故郷を描くとなると固定した場所を描く気になれず、どうして(も)その風土とそこに住む人達を思う。すべてのものが茶褐色に枯れ果て、暗い空から灰を思わせる雪、止むことを知らぬように降り続ける粉雪の冬を待つ晩秋、それを好んで描く。(中略)少年期をだだっ子のように過ごした山河と人々の中にある種の風貌を感じさせる人間像が私の心の中に深く沈着し、人々の表情が私の画想を豊かにしてくれた。」
なんだか少しさびしくもほっとした気持ちにもなる不思議な心情、これは昭和の時代を過ごした雪国の同郷の人間であれば、なおいっそう身に染みて感じる言葉だ。大人になって振り返ると、幼少を過ごしたけっして豊かではなかったはずの寒村の故郷をなつかしく慈しみをこめて思い出すのだろう。県境に近い多摩境にある小野路の里もそのような雰囲気が当時はまだ濃厚に残っているところだったからこそ、この画家が終いの棲家に選んだのではないだろうか。このひとは、つつましくもささやかな幸せをつかんだのだろう、なんともいえない気持ちになって、その人生を表わす言葉にしばし戸惑う。
(2015.12.16初校、12.25改定、26再改定)※註:学校経営を巡っていろいろあったようで、つい最近に両国近くに移転した。