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デュシャンの向こうの日本、芸術と日常の間にあるもの

2018年12月30日 | 美術
 さきの「マルセル・デュシャンと日本美術」第2部タイトルは「デュシャンの向こうに日本がみえる」となっていて、フライヤーのコピーには次のように記されている。
「Q.花入と便器の共通点は?」「美術(わざわざ“デュシャン”とルビがふられている)は見るんじゃない。考えるんだ。」
 まあ、デュシャンと日本の伝統文化との対比において共通の水脈を見出そうとする、いささか大胆とも想われる企画意図が伺える。はたして、どうだったか。

 もっとも一般的に有名な“泉”(1917)は、カッコ書きで「レディメイド」と付記されていて、これはなんなのだろうとずっと思っていた。ムンクの“叫び”と同様、“泉”はデュシャンの代名詞として、しばしばパロディの対象にすらなっている。かつてデュシャンが“モナリザ”の複製写真に髭を書きこんでパロディ化したことを思うと、これは皮肉な現象なのだろうか、それとも喜ぶべきことなのか。
 また、この“泉”は、今回の展覧会のアイコンとしてデザイン化されてもいて、ソフト帽子もしくは、サン・テグジュペリ「星の王子様」にでてくる、象をまるごとに見込んでしまった“ウワバミ”のようにも見えてうなってしまった。まあ、既成の美術概念をまるごと飲み込んでしまったという意味では、本質を突いた秀逸なデザインだと思う。

 レディメイド=既製品、ありふれた日常品、といった意味で、芸術品のオリジナル、唯一性とは対比の概念になるだろう。いってみれば、レディメイドの小便器に偽のサイン「R.MUTT 1917」としただけで、芸術品と称し提示してみせたところに、とりすました権威的美術界に対するデュシャンの挑発性を超えた衝撃があったといえるだろうか。でも、一般の日常生活者からみれば、だだのありふれた小便器にすぎないのが可笑しい。

 ふりかえってみるに初めてデュヤンの名前を知ったのは、大学生のときに手にした池田満寿夫(1934.2.13-1997.3.8)よる「摸倣と創造」(中公新書、1969年)だった。芸術と非芸術について、すでに華々しく活躍中だった俊英芸術家が論じたこの小冊子の中で、繰り返し強迫神経症のように取り上げられていたのがデュシャンであり、終章はそっくりデュシャンを通した現代芸術のありかたにあてられている。ここに印刷された“泉”の写真は、今回の出品物(レプリカ 1950)とかなりちがう。便器は薄汚れてかなりの年季ものように見える、また便器周囲の縁の曲がり具合が大きく、小便を流す穴の配置と数も異なっている。レプリカのほうは妙にのっぺりして白く光ってみえるのだ。両者の違いは、“泉”はオリジナルのモノから離れて、抽象、観念の産物であることを示している。

 ここで改めて新書の頁をめくっていたら、おもしろい記述を見つけた。著者がフィラデルフィア美術館でデュシャンの膨大なオブジェを見た時のことを次のように記述している。
「正直言って、私は失望したのである。美術館にいるというよりも“博物館”にいるといった感じが強く、当然芸術作品から受けなければななないある種の崇高さの感情からすっかり私は見放されてしまっていた。デュシャンのオブジェはあまりに物体でありすぎたのだ。」
 なんとも正直で率直な感想であり、今回の展示が奇しくも博物館でおこなわれたことにつながってくるではないか。池田は、この衝撃がひとの感覚の作用でなく「言葉」(観念)の問題であることを知る。オブジェを人間の目を通して脳が見ているのだ。芸術の価値とありきたりの日常をつなげるもの、あるいは隔てるものはいったい何なのか。
 
 デュシャンといえば、もうひとり忘れられないのが、この小冊子のなかでもふれられていた赤瀬川原平(本名は赤瀬川克彦、1937.3.27-2013.10.26)さんである。亡くなられてもう五年になるから、来年が七回忌だ。ともに芥川賞作家(受賞は1977年池田、1981年赤瀬川)であるが、1970年代における世間的な立場はスターとアウトサイダー、評価は大いに異なっていた。ふたりの芸術家としてのスタンスの違いもあれこれ興味深いが、そのことは別の機会にしよう。
 赤瀬川さんは、五十代のころに書いた「千利休 無言の前衛」(岩波新書1990年)で、デュシャンにふれている。小便器を“泉”と命名して鑑賞した行為は、日本の伝統文化における“見立て”の思想に通じなくもない、と。とすれば、デュシャンは日本における千利休のような存在か。
 西洋の目が小便器を泉に見立てたならば、日本の目では、利休と秀吉の関係になぞらえて、夏の早朝の一輪の朝顔の花に見立てるのが、ふさわしいだろう。便器に放たれた小便の飛び散りは、花弁についた清々しい朝露のしずくと思えば美しいだろう。

 この冊子の終章で赤瀬川さんは、かつて池田満寿夫が突き当たった芸術と「言葉=意識」の問題をさらに超える考察、人間と自然の関係から導き出された“無意識”に焦点があてられていること、いってみれば“偶然”、閃きや直観という要素の重要さを指摘している。
 「直観とは言葉の論理を追い抜く感覚にほかならない」(赤瀬川)
 「侘びたるはよし、侘びしたるは悪し」(利休)
 と続き、そのさきは仏教でいうところの他力本願思想につながっていき、いたく感動させられるのだ。「偶然を待ち、偶然を楽しむことは、他力思想の基本だろう」と説く。「他力思想とは、自分を自然の中に預けて自然大に拡大しながら、人間を超えようとすることではないかと思う」と結ぶ。


 Fontaine“噴水”(2018)、竹一重花入 銘 園城寺 天正十八年(1590)

追記;さてこれで「デュシャンと日本美術」展をきっかけにして、長年気になっていたデュシャンと池田満寿夫、赤瀬川原平、千利休の三人の日本人を語ってみた。はたして落語の三題噺よろしく、なんとかつながっただろうか。