函館市文化賞生みの親
法の番人で死すか・・・ヤミ米で生きのびるか
「ちょっとお願いがあるんだけれど、今度函館文化賞をいただいた山形弁護士の祝賀会に、ご祝儀を持って行って、そして私の変わりにテーブルに座ってきて欲しいんだよ。せっかくのご招待だからねえ・・・」ヤエ
「・・・せん・・・せい。ご祝儀はお持ちしますが、先生のお席の周りは函館の名手の方々ばかりなんですから、そこに私は座る事なんか出来ません。」私
「いいんだよ!そんな事気にしなくても・・・。」ヤエ
「せんせい・・・!それは、気にしますよ。先生と私では立場が違いますから。」私
「そんな事気にしないで、私の分まで美味しい食事をしていらっしゃい!」ヤエ
「せんせい・・・!それだけは出来ませんから。祝賀会の事務局長の奥様と知り合いなので電話で末席を用意していただくことにします。」私
「そんな事気にしなくてもいいんだよ。人間の何が偉いかなんて誰が決めるのですか?」ヤエ
「・・・・・(そう言われても、先生とは格が違います。)」私
とあるホテルの「漢詩」の部門で函館文化賞を授与された「山形道文弁護士の祝賀会」の末席で、その喜びともつかぬご本人の感謝の辞から始まりちょっと漢詩の話をなさり、それから一番感銘を受けたのが戦後「法の番人としてのとある弁護士さんのお話」をとつとつとお話された山形弁護士でした。
「○○弁護士は自ら法を守るものとして、戦後の食料難に倫理と法を守られついには餓死をしてしまいました。この弁護士のように弁護士と言うものは・・・・・。」と続く感動的なお話が終わった後に当時函館文化団体協議会会長の折原氏が祝辞を述べる前の自己紹介で
「実は、私は山形の百姓のこどもでしてね・・・。戦後生きていくためには親が闇米を売らなければならず、わたしはヤミ米を売ったおかげで
こうして生きて来れました。」とお話を始めました。「ともかく・・・おめでとうございます!」とステキな山形弁で会場はユーモアに包まれ来場者全員の祝賀の乾杯の渦に包まれました。
今にして思うと、このとき私の胸に去来したものは私なら法を守って餓死なんか出来やしない!と思ったことと、戦後の食糧難に自分が母であったなら、どんな事をしても我が子に食料を運ぶだろうという自信だけはあったような気がします。
生きる所作としての「究極の生き方・死に方」を函館を代表する山形弁護士と日本の現代美術を代表する折原先生とのお話を直に聞けた事はヤエ先生のご配慮の賜物だと思っています。
(今このように回想している途中に、まずい事も思い出しました。
ヤエ先生にこの祝賀会の「報告」をしていませんでした。あらら。)
この祝賀会で、函館の法曹界トップの方の信条と、函館から現代美術を発信しつづけておられる芸術の大家のお話は、今、思い出しても自分史に残る忘れられない名場面のひとつでありました。
以前、折原先生からいただいた、「いずっこ」をモチーフにした彫金は家宝となって子へ孫へと手渡す所存です。
ヤエ先生のよき理解者のお一人だと言う事も記しておきます。
川柳北海道散歩・川柳っていいね!北海道散歩・弁護士と漢詩・法の番人もいれば生きねばならぬため法も犯した戦後・川柳と仕事を両立できると教えていただいた方が山形弁護士でありました。函館は北海道の歴史の始まりです。文化人は札幌の人口比率と比較して三倍いるはずです。北海道文化発信基地はこだて!函館文化賞は川崎ヤエ氏の提唱による歴史です。すごいねー・・・せんせい!あらためて感慨深いですよ。(そんなことはないんだよ・・・皆が世の中の平和を守るためにあらゆる芸術の文化水準を高めなければと思ったのですよ。・・・と、おっしゃるかなー・・・?)