川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

女人湯けむりとーちゃんとオバマ談議

2009年01月20日 | 川柳

「オバマ大統領より麻生総理の方が給料高いって知ってた?」彼女

「えー・・・知らなかった。そうなのお・・・!」私

「ドル建てでオバマが3600万、円建てで麻生総理が4300万」彼女

「へーえ・・・責任の割にはアメリカ大統領って給料が少ないなんてびっくりだね!」私

「まさか・・ホワイトハウスの家賃や、諸経費を引くなんて事態にならなけりゃいいけどね(笑)」私

「そりゃー・・・ないだろう・・・よ。(笑)」彼女

「あなたの昔住んでいた、フィラディルフィアだよ・・・なつかしいでしょう!」私

「なつかしいねー・・・アメリカの発祥の地だし、ドイツ系移民が多いところだったよ。」彼女

「あなたのとーちゃん(彼女の夫)が、T芝の研究所から一週間消息不明になったのもフィラディルフィアだったよねー・・・。(笑)」私

「そうなんだよ・・・一週間ぶりに家に着いて言った言葉が・・・ノートパソコンが小さくならない!!(笑) だからね 。とーちゃんは会社のこどもで・・・私の子供たちは私生児のように暮らした人生だったね。T芝のために生まれたんでないかい!家のとーちゃんは(笑)」彼女

「でも、63歳になっても まだ会社でやめさせてくれない・・・という、今となってはありがたいんじゃないの?」私

「確かにね。だからいくらでも離れて暮らしても平気なのよ・・・私は。」彼女

「・・・まあ・・・これからは、研究に疲れたとーちゃんも函館の温泉だんなで浸かる余生も待っているから・・・せいぜいそのときは・・・いい妻でもやってくんなましってとこだよね・・・」私

東京と函館で離れて暮らしていても、信頼感という絆の深い夫婦。

ノートパソコンを少しでもコンパクトにする研究に没頭していた彼女のご主人。

「パソコンのこと意外は、工学の分野以外はなーんも知らない男だよ。」彼女

「そんな、日本のくそまじめな研究者が、技術者がこの日本を技術立国にしたんだよ。あなたのとーちゃんは、日本を、世界を背中に背負って生きていたんだよね。。。」私

「そうかねー・・・???合コンってことも・・・何だかわからなくて、電話の向こうで息子に合コンってなんだい?って聞いてたくらいだからね。(笑)」彼女

       ・・・・・今日の昼休みに彼女から電話があり、・・・・・・

「明日の朝2時からオバマ大統領の就任式をノーカットで見たいから、昼寝をして朝の5時までテレビを見るつもり・・・黒人の大統領を見るなんて、冥土の土産にしたいからね!」彼女(相当楽しみにしています。)

      「よっしゃー・・・わたしもそうするわ!!」

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本物と付き合えば本物になる(川崎ヤエ)

2009年01月17日 | 川柳

     現役の仕事をすべて退任されたのが85歳。

 北海道の女性史をひもどくとこの「川崎ヤエ先生」にぶつかるであろうと思っています。

明治36年12月生まれ、函館の五島軒という老舗レストランの真向いにヤエ先生は住んでおられたそうです。

父の背中におんぶされ、幼いころ何度も聞いた「義太夫」。幼児期に体験したことは、生涯に亘って何らかの影響をその人格形成に左右する事は当然のことですが、ヤエ先生が小唄をたしなまれたのも、義太夫の謡曲が流れる歌舞伎もよくごらんになったことも、そんな、大好きだった父親との思い出だったのかも知れません。

特に喜ばれたのは、函館の無形の財産である「こども歌舞伎」です。

舞台に出演しているこどもたちを見守るまなざしはいつも「慈母」そのものでした。

たまに、先生と手を繋ぎながら歩いていると、(転ばぬように)その人肌から伝わってくる温かなエネルギーが「函館版マザーテレサ」じゃないかと思ったこともありました。

こんなことを書くと、きっとあの世から「マザーテレサと川崎ヤエのちがいはどこか!」という、ご自分の「自省談反省談」になりそうなので、余りほめない事と致しましょう。

 (ほめられて・・・乗せられて・・・天まで昇る・・うつけとはまったく違いますね。)

「せんせい・・・!先生は沢山の有名な方々からいろいろなものを頂くのに・・・何一つお部屋に飾っていないですね。・・・そして、名誉アルいろんな受賞もされているのにそれもない・・・ですが・・・どうしてですか?」40さいの私

「いろんな方々から・・・たくさん頂戴しましたよ。函館では一番位が高いらしい賞もいただきましたよ。みな納戸にしまってあります。」ヤエ

「せんせい・・・ひとつくらいお飾りになられてもいいかな・・・と思います・・・が」私

「そうかい・・・。だがねえ・・・いくら素晴らしい賞をいただいていても、わたしゃー50年前憲兵に追っかけられた人間ですよ!50年たってあなたのしたことはすばらしかったって・・・今更言われても、特段うれしいものではないですよ。

・・・・・・いいですか・・・・そのように、時代の価値観というものは

50年ごとに、知らず知らずに変化していきますよ・・・・・。

ちゃんと、時代の本質をつかめる女性にならなければいけません。

そして、あなたも・・・これからは・・・本物の人間とおつきあいをなさい。。。。。

 ニセモノと付き合うと偽者しかなりませんよ。。。。。

 ヤエ先生は、さりげなく諭すように・・・そうおっしゃいました。

 

川柳っていいね!北海道散歩・川柳北海道散歩・川柳北海道散歩・審美眼に優れていたヤエの生涯のほんのひと触り散歩・川柳北海道散歩は川崎ヤエ先生の懐にちょっと触れるだけかな・・・?・やっぱり私は極めた人が大好き人間・極めるとはnanzoya ? jibunwoikani seisurukotogadekirukadearu.

 

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イスラエル軍、ハマス内務省空爆で死亡

2009年01月16日 | 川柳
イスラエル軍、ハマス内務相を殺害 空爆で

 【カイロ=安部健太郎】パレスチナ自治区ガザで戦闘を続けているイスラエル軍は15日、イスラム原理主義組織ハマスの有力幹部のシアム内務相を空爆で殺害した。同時に軍事部門の幹部なども死亡しており、ハマス側は戦闘の指揮系統が混乱する可能性がある。

 シアム氏は約1万3000人とされるハマス警察・治安部隊のトップ。対イスラエル闘争を主張する強硬派で、在シリアの在外指導部との関係が深い。イスラエル軍はガザ市にあるシアム氏の兄弟宅を空爆。イスラエルメディアによると、同国の国内治安機関シンベトが所在情報をつかんだという。

 イスラエル軍は15日にガザ市南東部など市街地へも侵攻、戦車などが激しく砲撃を加えた。空爆も続いており、中東の衛星テレビ局アルジャズィーラによると先月の空爆開始後のパレスチナ人の死亡者は1100人を超えた。(14:01)

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川崎ヤエ回想録・・・政治編その8

2009年01月15日 | 川柳

             函館市文化賞生みの親

       法の番人で死すか・・・ヤミ米で生きのびるか

「ちょっとお願いがあるんだけれど、今度函館文化賞をいただいた山形弁護士の祝賀会に、ご祝儀を持って行って、そして私の変わりにテーブルに座ってきて欲しいんだよ。せっかくのご招待だからねえ・・・」ヤエ

「・・・せん・・・せい。ご祝儀はお持ちしますが、先生のお席の周りは函館の名手の方々ばかりなんですから、そこに私は座る事なんか出来ません。」私

「いいんだよ!そんな事気にしなくても・・・。」ヤエ

「せんせい・・・!それは、気にしますよ。先生と私では立場が違いますから。」私

「そんな事気にしないで、私の分まで美味しい食事をしていらっしゃい!」ヤエ

「せんせい・・・!それだけは出来ませんから。祝賀会の事務局長の奥様と知り合いなので電話で末席を用意していただくことにします。」私

「そんな事気にしなくてもいいんだよ。人間の何が偉いかなんて誰が決めるのですか?」ヤエ

「・・・・・(そう言われても、先生とは格が違います。)」私

とあるホテルの「漢詩」の部門で函館文化賞を授与された「山形道文弁護士の祝賀会」の末席で、その喜びともつかぬご本人の感謝の辞から始まりちょっと漢詩の話をなさり、それから一番感銘を受けたのが戦後「法の番人としてのとある弁護士さんのお話」をとつとつとお話された山形弁護士でした。

「○○弁護士は自ら法を守るものとして、戦後の食料難に倫理と法を守られついには餓死をしてしまいました。この弁護士のように弁護士と言うものは・・・・・。」と続く感動的なお話が終わった後に当時函館文化団体協議会会長の折原氏が祝辞を述べる前の自己紹介で

「実は、私は山形の百姓のこどもでしてね・・・。戦後生きていくためには親が闇米を売らなければならず、わたしはヤミ米を売ったおかげで

こうして生きて来れました。」とお話を始めました。「ともかく・・・おめでとうございます!」とステキな山形弁で会場はユーモアに包まれ来場者全員の祝賀の乾杯の渦に包まれました。

今にして思うと、このとき私の胸に去来したものは私なら法を守って餓死なんか出来やしない!と思ったことと、戦後の食糧難に自分が母であったなら、どんな事をしても我が子に食料を運ぶだろうという自信だけはあったような気がします。

生きる所作としての「究極の生き方・死に方」を函館を代表する山形弁護士と日本の現代美術を代表する折原先生とのお話を直に聞けた事はヤエ先生のご配慮の賜物だと思っています。

(今このように回想している途中に、まずい事も思い出しました。

  ヤエ先生にこの祝賀会の「報告」をしていませんでした。あらら。)

この祝賀会で、函館の法曹界トップの方の信条と、函館から現代美術を発信しつづけておられる芸術の大家のお話は、今、思い出しても自分史に残る忘れられない名場面のひとつでありました。

以前、折原先生からいただいた、「いずっこ」をモチーフにした彫金は家宝となって子へ孫へと手渡す所存です。

  ヤエ先生のよき理解者のお一人だと言う事も記しておきます。

川柳北海道散歩・川柳っていいね!北海道散歩・弁護士と漢詩・法の番人もいれば生きねばならぬため法も犯した戦後・川柳と仕事を両立できると教えていただいた方が山形弁護士でありました。函館は北海道の歴史の始まりです。文化人は札幌の人口比率と比較して三倍いるはずです。北海道文化発信基地はこだて!函館文化賞は川崎ヤエ氏の提唱による歴史です。すごいねー・・・せんせい!あらためて感慨深いですよ。(そんなことはないんだよ・・・皆が世の中の平和を守るためにあらゆる芸術の文化水準を高めなければと思ったのですよ。・・・と、おっしゃるかなー・・・?)

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クリントン次期国務長官・・・基本理念

2009年01月14日 | 川柳

クリントン米次期国務長官:「スマートパワー」提唱 軍事偏重と決別--上院公聴会

 【ワシントン草野和彦】米上院外交委員会で13日開かれたヒラリー・クリントン上院議員の国務長官指名承認に関する公聴会で、クリントン氏は新政権の外交政策の基本理念として、「スマート(賢明な)パワー」を打ち出した。

 軍事力などの「ハードパワー」のみに頼らず、外交力や文化発信力、経済力などの「ソフトパワー」を組み合わせて活用し、協調主義に基づいた米国の国際的指導力を刷新する姿勢を明示。ブッシュ政権の軍事偏重路線との決別を改めて強調した。

 直面する課題の一部として、イラク戦争の責任ある終結と、アフガニスタン戦争へのシフトを挙げ、アフガン、パキスタン両政府や周辺国と協調した「包括的対策が重要」と語った。

 イスラエル軍の攻撃が続くパレスチナ自治区ガザ地区情勢については、イスラエルの自衛権を認めつつ、民間人の被害増大にも強い懸念を表明。中東和平の実現に積極的に取り組む意向を示した。

 イランや北朝鮮の核拡散問題への対処も表明。さらに、クリントン前政権下で署名した核実験全面禁止条約(CTBT)の批准を目指す方針も示した。

 クリントン氏の承認は早ければ上院本会議で新政権発足日の20日に採決される。上院はクリントン氏の民主党が多数のため、承認される見通し。

毎日新聞 2009年1月14日 東京朝刊

<メモ>

 アメリカの議会は、政権が変わるごとに官僚も入れ替わる。

もともと、すべての行動パワーにおいて政治家であっても、「契約」の社会である。

日本のように「あっちだこっちだそれこっちそうかも知れないけれどやっぱりこっちにしようまだまだ・・アー困った」の政治ではない。

それぞれの、政治家同士でも名指しではっきり「悪いものは悪いと」言い合えるスゴイ環境にある。

いつも思うことなのですが、日本人とアメリカ人の決定的な脳細胞の陰のとらえかたが遺伝子的には日本4:アメリカ1(だったような気がする)

    それほど日本人は、潜在脳がマイナーです。

プラスマイナスバランス良く、合理的にアメリカ政治と対処しなければ40代の若いオバマ氏との良き理念において共有できなくなります。

今までのアメリカの女性国務大臣は、オルブライト元国務長官・ライス国務長官・の方々も案外戦闘強硬派が多い中で今回のこのクリントン女史の発言は「期待ができるかなー・・・」

オバマ次期大統領の方針に沿っての理念ではあります。

オバマ氏とのガチンコする姿も目に浮びますが、彼女をいかに有効に国益に反映させるかのスタンスならこれ以上のブレーンもいないことでしょう。

オバマ氏の彼女を生かすリーダーシップが楽しみです。

オバマ政権は第一にアメリカの体質改善政府になって欲しいものです。

 それから、私の友人の娘サン2人がワシントンDCで働いております。

今、ホワイトハウスのみならずあちこちで、セキュリティーの設置工事や警戒の厳重体制に入っているようです。「すごいわー・・!私は就任式は怖いから行かない!」ということです。

   ついでに、オバマ大統領時代に「銃規制を強固・・・」にして欲しい。

   これは、やってやれないことはない。(知恵と利権が合意すればいい)

  オバマ大統領の高い支持率のうちに国民を説得できればいい。

日本人だって、明治・大正・昭和・平成の時代を経て・・・日本刀・帯刀などのチャンバラ道具はとっくに捨てているのですから。

アメリカだってできないことはない!(こんなところは相当文化的後進国だと、世界が揶揄しなければいけない・・・外圧が欲しいオバマ氏ではないでしょうか。)

川柳っていいね北海道散歩・川柳言うべきは言う北海道散歩・川柳北海道散歩・川柳っていいね表現散歩北海道散歩・川柳姑息な政治は誰もが大嫌い北海道散歩・クリントン国務大臣あちこちで紛争を和平に出来たらノーベル平和賞ですよ。

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日本版グリーン・ニュー出ーる構想・・・アメリカに続け!

2009年01月13日 | 川柳

地球温暖化対策を景気対策に結びつける「日本版グリーン・ニューディール」構想について、斉藤環境相は6日、麻生首相に報告した。麻生首相は「より大胆なものに」するよう指示した。


環境省がまとめた「日本版グリーン・ニューディール」案では、今後5年ほどで環境ビジネスを100兆円市場、220万人の雇用を生む規模まで成長させることや、省エネ家電や電気自動車の開発など、環境省だけで進められる政策が柱となっている。


斉藤環境相から報告を受けた麻生首相は、「ほかの省庁と連携し、より大胆で、インパクトのあるものに」するよう指示した。
「グリーン・ニューディール」は、アメリカのオバマ次期大統領が提案した政策で、環境省は、日本版の具体的な骨子を2008年度中にまとめる方針。

<メモ>

環境問題と、失業対策が柱となって推し進める日米グリーンニューデール構想。

その背後では、従来のエネルギー市場にかかわっていた企業などの縮小・淘汰も因果関係として「痛み」を伴うバランスの問題でもあります。(陽あれば陰もある)

日本の官僚の利権を一つずつ崩しては、また新たな利権が生まれる事でもありますが日米の経済戦略の歩調スタートを切ったことは、ブッシュ政権下では叶わなかった事です。

オバマがんばれ!麻生がんばれ!(総理のスピード感も認めていますよ・・・ワタクシ)渡辺善美議員の離党も理解できるなー・・・捨て石もわかるなー。

最小派閥の領主は、三木武夫・海部俊樹・麻生太郎・・・なーんか同じ道たどりそうだなー・・・。

 川柳グリーン北海道散歩・川柳正義が通じぬ永田町・川柳政治腐敗の歴史はもう200O年前からすでにあったしね。川柳公明党の2兆円ばらまき案・詰め腹を切らせたのは誰?川柳政治はやっぱり舞台だね。川柳北海道散歩・

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川崎ヤエ回想録・・・政治編その7

2009年01月12日 | 川柳

        戦後復興の御旗を掲げた昭和22年

            日本は財政難。どん底。

    地方財政も窮地からの出発、昭和30年までボロボロ

   「美しい函館夜景」の始まる音がする。

「昔はねえ・・・公共事業と言ったって、各町内の電柱を2本・3本立てるのにさえも苦慮したものですよ。不正があってはなりませんからね・・・そこの町内から選出された議員をはずして公正に決議したものですよ。」ヤエ

今の時代では考えられない「公共事業」の「中味」であります。

日本そのものがアメリカのコントロール化に置かれ、戦後復興といっても今のような「箱物」など、どんどん建てられるすべもなく、市税・固定資産税の財源すらおぼつかず、函館市職員の給料すら危ぶまれた時代であったようです。

「あのねえ・・・帰りに吉谷元市長のところへ届けてもらいたいものがあるんだけどねえ・・・頼めるかい?」ヤエ

「はい!いいですよ。」私

「あの吉谷元市長は、函館市にとってすばらしい名誉市長でしたよ!」ヤエ

家路につく途中、元吉谷市長のお家にうかがってびっくり。

木造の一階建ての瀟洒なお家の周りはぐるりと高い木々に囲まれまるで、日中の陽さえお家には差し込んではいない。

暗い玄関口で50歳近くのお嬢さんがご丁寧に私を向えて下さいました。

なんとも不思議な感じで帰宅してから、もう十数年が過ぎ去りました。(仙人が住んでいるようなお屋敷でした。)

 今、ちょっと函館市史を検索しましたら、昭和30年ごろ吉谷市長時代から、函館財政が闇から脱したように書かれてありました。

       世界的に有名な函館夜景

函館の行政の台所を健全化させた元吉谷市長

「函館を良くしたい!」の一心が、そしてその強い思いと行動がヤエ氏にとっても自分を理解していただける大きな存在ではなかったのでしょうか。

そんな、共に歩んだ函館市政。

どん底の地方行政の難産を共に克服して行かれた先人達。

その息吹が街路樹の電柱の一本・二本・三本と函館の戦後復興の大きな市民生活のともしびであったことでしょう。

           その原点の延長線上に

「世界三大夜景」の歴史が内包されています。

その当時の町内に住まわれた方々の喜ぶ顔が見えてくるようです。(暗い夜道は物騒ですからね。)

 私がここから学ぶべき事は、国も地方の行政もこの夜の闇を照らす電柱の一本・二本に託した戦後復興の先人の思いを、今一度「原点」として振り返り、立脚して考える礎にしたいものです。

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海賊退治・アフガン支援の置き土産・・・シーファ駐日米大使

2009年01月11日 | 川柳

        海賊問題 日本は積極的に参加を 

         シーファー米大使お別れ懇談

2009.1.9 21:28
このニュースのトピックス:オバマ次期米大統領

 シーファー駐日米大使は9日、離任を前に記者団と懇談し、ソマリア沖の海賊問題で「日本が自らを守る用意がなければ誰が守るのか」と国際協調行動に日本の積極的参加を呼びかけ、オバマ新政権下のアフガニスタンでの貢献でも「自衛隊派遣とは別に文民分野で可能なことは多い」と自発的行動を訴えた。政治が停滞する中で内向きになりがちな日本に強い励ましのエールを送った。

 シーファー大使はブッシュ政権の8年間を日米関係の「黄金時代だった」と振り返り、同盟の強化と深化の両面で「多くの成果があったことを誇りに思う」と評価した。その上で、ねじれ国会など日本の政治が手詰まり状態に陥っていることで、「日本が自分たち自身と世界で果たすべき役割に自信を失うことを心配している」と述べた。

 海賊対策に関しては「海賊は国家ではなく、犯罪者(の集団)で、集団的自衛権の問題や憲法9条とは別だ」との認識を強調。「日本は国際社会の海賊対策に積極的に参加すべきだ」と語った。また、アフガン問題では、保健・衛生、インフラ再建、選挙支援、行政・統治支援など「文民の分野でできることは幅広く、どの政党でも支持できる」と述べた。日本は貢献を求められるまで待つべきでなく、日本からイニシアチブを発揮して国際社会の協調行動に参加する意思を示すことが「強力なメッセージとなり、新政権と関係を始める上でこれ以上よい方法はない」と指摘した。

<メモ>

ブッシュ政権の8年間は日米関係にとって黄金時代だったとは、私たち小市民には実感はありませんね。「アメリカにとって」と言う意味かな!

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川崎ヤエ回想録・・・政治編その6

2009年01月10日 | 川柳

         せめて立候補者の名前を覚えるために

         一ヶ月時間を下さい!

 函館で初めての女性市議会議員「川崎ヤエ氏」の議会への嘆願であったそうです。

「でもねー・・・すぐにこれは却下されたのですよ。悔しかったね。昔はね(戦後すぐ)農村や漁村で仕事に忙しい女性たちは、文字が読めない人も多くいました。だから婦人に選挙権が与えられても誰が誰だかわからなくて投票する女性も多くいました。

また、悪い人がいてねー・・・あんた誰に入れるんだい?アーこの人ならこの字だよ!と投票所の入り口で親切を装って、不正をさせるんだよ。ご婦人達は字が書けないことが恥ずかしいので、ご親切に有難うございますと言いながら自分達は自分の投票したい人に投票が出来なかったのですよ。

            日本中がそうでしたね。

だから女性に一ヶ月だけでも、立候補者の名前と、氏名が書けるように勉強をさせたい。だから議会に私はお願いしたのですよ。」ヤエ

日本の歴史に燦然と輝く「婦人参政権」明治時代から、男性の議会で否決されていた「婦人参政権」

これは日本の女性たちが投票所に向う光景の史実であります。

「婦人参政権」を手にした日本中の女性たちと、それを見る男性達の複雑な戸惑い。

(世界中の国々でも多かれ少なかれこのようなことから女性の選挙権の歴史は始まっていたのかも知れません。

イラクも昨年女性に初めて選挙権が与えられたそうです。

あのアメリカでさえも日本より25年早く施行されたというのですから。)

          格差社会と言われる「今日」

川崎ヤエ氏が函館の市政に足を踏み入れた、昭和22年。

           私は、ちょっと考えます。

             昭和21年敗戦

   戦争で命を落とした人・・・無事に帰ってきた人

          お金持ちと・・・貧乏人

   小学校もろくにいけなかった人・・・大学を出れた人

      浮浪者がいて・・・赤線(女性の人身売買)があって

  戦争で大もうけした会社・・・失業者で溢れていた闇市。

 

           格差社会って何でしょう?

      『日本のご高齢の方々に笑われそうですね。    

  川崎ヤエ氏が「道南の女性の地位向上」に半生をかけた

              政治家としての

              第一のテーマ

                それは

「野良仕事の手をちょっと休めて一日30分でいいですから、本を読んでください!!!

字の書けない方は、せめて自分の名前を書けるようになりましょう!!」

 

道南の郡部へ・・・荷馬車の後ろに「ちょこん」と乗って、彼女は

      ご婦人達に呼びかけ続けたのです!!

    「一日30分だけでいいですから・・・本を!!!」

 

   「でも、楽しかったよ・・・いい天気の時はね(笑)」ヤエ

 

川柳北海道散歩ヤエは馬車に乗る・川柳北海道散歩・川柳北海道散歩・川柳北海道散歩・川柳北海道散歩・川柳ヤエ散歩・

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川崎ヤエ回想録・・・政治編その5

2009年01月09日 | 川柳

           市議会議員の一幕見

 「次の案件について・・・賛成をしなさい!」D市議会議員(函館財界人)

昭和22年、終戦の翌年川崎ヤエ氏は北海道新聞社の文化課長としての仕事から一転して「函館市議会初の女性議員」として、その後4期16年函館市の政治に実直にかかわることとなりました。

                川崎ヤエ44歳

(当時の集会などの写真を見ると、川崎ヤエ氏の眼光は鋭い。)

「わかったな!」D市議会議員

「申し訳ありませんが、あなたは確かにこの函館では地元を代表する大会社の社長様でしょうが、この市議会にあっては私もあなたも一議員として平等な立場でございます。あなたがいくら私に賛成せよと言われましても、私はあなたの社員ではございません。私は私の考えによって採決させていただきます。」ヤエ

「・・・・・。」D市議会議員

日本もこの函館も敗戦から立ち上がりながら市議会を運営すること事態、今の時代から見るとたくさんの「大困難時代」の政局運営だったことでしょう。

昭和21年、中央政府では女性国会議員が39名出現しております。

マッカーサーからの贈り物でもある「婦人参政権」がやっと日本にも与えられたのでした。(明治時代よりの長い道のりでもありました。)

ただし、「婦人参政権」は、日本政府で可決されたものではありますが半ばアメリカからの圧力によって生み出されたものでもあります。

地方政治にも婦人を!・・・という風潮でもあったのでしょう。

「さて?函館からご婦人の議員を・・・」と見渡しても「政治家」としての素養を見ると、「教育・文化・政治」に通じている「川崎ヤエ氏」に北海道新聞社が「適任」とみて・・・彼女を推したのだという事は容易に推測ができます。

そして、函館市議会は日本の敗戦の混乱を背景に「軍国主義」で教育された政治家の殿方と「女性の地位向上」を胸に深く秘めた「才女」とのバトルは又、彼女をより大きな器の政治家、人間として成長のバネさえ転化をさせたエネルギーであったのかもしれません。政治的に無為で姑息な事象には足を引っ張られながらも、彼女の見識、良識の高さはその不穏な波さえも織り込んだかのように見せながらも政策決定には是々非々の態度で臨んだことでしょう。(彼女の今を見れば、人の過去というものはうかがい知る事ができようというものです。)

それが証拠に、川崎ヤエ氏は男達の言うことを聞かないから一層のこと議長にしてしまえ!という影の陰謀にも「議長になったら女性を代弁できない!」とこころに刻み、最後まで拒否をし、抵抗をして「議長の椅子には座らなかった」と・・・いう一幕もあったそうです。

函館市の「女性の代表・代弁者」としての、16年間の政治活動は彼女にとっても「男尊女卑」がはびこっている中で、女性の地位を確立していくことは並大抵のことではなかったと・・・察する事だけはできます。

さまざまな困難があればあるほど、さまざまな圧力があればあるほど

川崎ヤエ氏は「知恵を磨き」「アイディアを駆使し」自分自身にたゆまぬ勉強を積み・・・日本の未来を地方(函館)から作り上げながら進まれたのです。

                 たった一粒の麦

その踏まれるたびに強くなる川崎ヤエ氏を函館のご婦人達も一生懸命敗戦から立ち上がるために彼女をバックアップしたのでした。

川崎ヤエ氏の父親が「お前が男だったらな・・・」と何度も言われ、

今生の別れの際の寝床では「うちにはヤエがいるから大丈夫だ。」と言われ目を落とされたといいます。

            「ヤエがいるから大丈夫だ。」

  この絶句もまた、彼女に大きな人生の課題を与えたのでしょう。

 

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