明治37年創建、覚王山 日泰寺。
明治33年(1898)ネパール国境に近い、インド(当時英国領)ピプラワーで、英人駐在員が、
古墳を発掘中、人骨を治めた壺を発見しました。
壺に書かれていた古代文字の解読から、この骨が、仏陀の骨であることが確認されました。
仏教原始古典には、「釈尊の遺体を火葬して、八つに分けて釈迦族達が祀った」と記されて
いる為、この骨が、仏陀の物に間違いないと立証されたのです。
英国は、舎利瓶だけを、カルカッタの博物館に寄贈し、仏舎利は、仏教国である、タイ(当時
はシャム)に寄贈しました。
時のタイ国王、チュラルンコーンは、仏舎利を、同じ仏教国である、セイロン、ビルマにも寄贈
しました。
当時のタイ国駐在公使稲垣滿次郎は、国王に懇願して、日本にも頒与を申し出ました。
国王は快諾し、国王からの贈り物として分骨を決定しました。
日本の当時の仏教界は、13宗56派がありましたが、相談の結果、新たに無宗派の寺を
建立し、納骨する事になりました。
全国各地の誘致合戦の末、最も熱意の高かった名古屋市が、誘致先と決定し、覚王山に、
日泰(日本と泰国)寺を建立しました、
タイ国王は、寺院完成のお祝として、タイ国国宝の釈尊金銅仏1体も贈られ、日泰寺の
本尊とされました。
↓仏舎利を祀る奉安塔。奥まったところにあり、写真を撮り忘れましたので、パンフレット
から、お借りしました。
チュラルンコーン王像。
参道にあったもの。