また、1年たって、高校時代の東海地区同窓会がやってきました。
今回の幹事の企画は、琵琶湖の旅でした。
尾張平野から、関ヶ原を超えて、近江に入り、北國脇海道(国道365)を湖北まで北上すると、
小谷城があります。
北近江の有力武将だった、浅井家三代の夢と悲劇の城跡です。
北近江の有力守護職だった浅井亮政は、京都守護職の六角高頼と近江の覇権を争いながら、
越前浅野家の援護を受けて、近江の守護大名にまでのし上がり、小谷山に城を構えます。
三代目の長政は、信長の妹、市を娶り、勢力の安定を図りますが、信長の、浅野討伐の戦略に
によって、運命は暗転します。
信長に、越前出兵を命じられた長政は、浅野家との信義を重んじ、信長に反旗を翻します。
あやふく難を逃れた信長は、長政を討つべく、家康の同盟を得て、姉川で、浅井・浅野連合軍と
対峙して、勝利します。
長政は、小谷城に逃げ帰り、再起を図りますが、3年後の天正元年(1573)、再び、浅井討伐に
乗り出した信長と、小谷城で戦い、戦運かなわず、自刃します。
長政、29歳の時でした。
北近江に君臨した、浅井三代の居城として建てられた小谷城は、琵琶湖を見下ろす小谷山
(395m)山頂にあります。
今は、館は残されていませんが、最上部の本丸と、そこに至る要所に建てられた重要施設
の跡が残されており、当時の様子をうかがうことができます。
首居石。
六角高頼との攻防のおり、高頼に内通した今井秀信の首を切り、この石の上に置いて見せしめ
にしたそうです。
赤尾屋敷は、本丸と、浅井一族の居住した大広間と呼ばれる屋敷跡にもっとも近いところにあ
る重臣赤尾氏の館跡です。
天正元年9月1日、最後の戦いに打って出た長政が、信長軍に追われ、本丸に帰ることができ
ず、赤尾屋敷に逃れ、ここで自刃します。長政、29歳の時でした。
浅井家重臣の供養塔。(後日建てられたもの)
本丸跡から見下ろした大広間。
ここは、小谷山最大の曲輪(山腹、尾根に造成された平地)にあり、長政と家族が居住ました。
浅井三姉妹の内茶々、初、もここに住んでいました。
奇しくも、江は、長政の自刃した当日、他所で生まれております。
本丸跡には、何も残されておりません。
戦国の乱世を駆け抜けた武将たちの夢、その家族たちの、数奇な人生が、ここ北近江にもあり