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韓国の散歩道 百済の都 公州、扶余 2

2014-12-13 05:27:51 | 日記
高句麗に追われて、南進した百済の文周王は、475年、錦江上流(白馬江:ベンマガン)の熊津城(忠清南道公州)を王都として再起を図った。



しかしながら、文周王は、遷都3年後、478年には、地元の豪族、ヘグの乱により、殺されてしまった。
次いで王位に就いた東城王も、501年には、ベッカの乱により殺される。


やがて、これらの乱も鎮圧され、百済の国内基盤は、強固に、固められて行った。
6世紀初めの、武寧王、聖王の時代は、百済中興の繁栄を見せる時代であった。


↑現在の公州市中央を流れる錦江(白馬江)。


↑武寧王陵。
百済25代王、武寧王と王妃の合葬陵。
陵内部の玄室からは、1500年の眠りについていた王、王妃の棺のほか、金冠、装身具、死後世界の、土地保証書など、3000点に
及ぶ遺物が出土した。




公山城。

百済の王都、熊津城の城址の、後年建てられた公山城。

拱北楼と双樹亭。



武寧王没後、王位についた聖王は、高句麗の南進に備えるべく、都を、公州の熊津城から、さらに下流の、四(サンズイ)比(サンズイ)城にに移した。
忠清南道扶余である。
国号を南扶余と号した。
武寧王の公州、聖王の扶余の時代が、国防、文化ともに、百済の最も安定した時代であった。






聖王は、北進して、高句麗を討ち、旧百済の領地、漢江の漢山城を回復したが、数年して、北進して来た新羅により奪取されてしまった。
聖王は、新羅を討つべく南進し、忠清北道沃川の管山城を撃つが、この戦いで戦死してしまう。
これまで、三国の中で、比較的弱国視されていた新羅が、百済の前に大きく立ちふさがってきた。
半島の政治情勢は、6世紀中葉を超えた所で一転するのであった。
この後の抗争を経て、百済は、高句麗とともに、滅亡への道をたどるのである。
その経緯については、次回に述べる。