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韓国の散歩道 百済の滅亡

2014-12-14 00:20:12 | 日記
6世紀末、中国大陸では、南朝の陳、北朝の隋による南北朝が続いていたが、589年、ついに、隋が陳を倒し、南北を統一した。
隋は、国境を接する高句麗と争い、高句麗領への侵入をくりかえしたが成功せず、やがて疲弊して、618年には、唐が隋に代わって立った。
唐は、隋に代わって、高句麗攻略をたびたび繰り返したが、そのたびに、高句麗に阻まれた。

一方半島では、642年、百済の義慈王が、新羅領に深く侵入し、大耶城など40余城を奪取した。
このため新羅は唐に援助を求めた。
さらに、658年、高句麗・百済連合軍が深く新羅領に侵入してきた為、新羅は再び唐に支援を求めた。
唐は、新羅と連合して、百済の四比城を攻め、陥落させた。
百済王義慈は、唐に連行され、これにより、百済は滅亡した。
始祖より、31代、678年の歴史に幕を閉じたのであった。

白馬江。


美しい白馬江のほとりには、扶蘇山があり、別名半月城と呼ばれて、百済の鎮山であった。


李氏朝鮮時代に再建された建物も、多く残っている。




突端は、白馬江へなだれ落ちる断崖絶壁になっており、新羅・唐連合軍によって追い詰められた百済の女官3000人が、
ここから身を投じたと言われているのが↑の百花亭である。



↑女官たちが落下した絶壁。
女官たちの落ちて行くさまが、あたかも、つつじ(チンダルレ)の花が落ちて行くように見えたことから、この岩を
今でも落花岩と呼ぶ。