昭和30年代初めになると、政府は、所得倍増の 掛け声のもとに、大量生産、大量消費、いわゆる、
使い捨ての時代へと、方向転換したのです。
企業は、この、国策に則って、設備の拡大、エネルギーの大量消費へと、方針変換していきました。
この様な、無防備での企業活動の拡大は、いろいろな方面に、大きな影響を与え始めたのです。
この様な、重大問題の発生は、産業優先の政府の方針、法整備の不備、医学、工学、土木、環境学等の学会の不勉強、
マスコミや国民の無知等々、いろいろな要因がもたらしたものだったのです。
塩浜コンビナートが本格的に、稼働を始めてしばらくすると、磯津漁港に水揚げされる魚の異臭問題が発生しました。
漁民たちは、実力行使に出て、工場の排水口を、封鎖しようとしました。
これにより対する、政府、行政、企業、マスコミ、国民の反応は、冷たいものでした。
それ程、当時の日本人の環境に対する意識は、低レベルなものであったと言うことです。
公害に苦しむ地域住民、被害者は、自力で解決しようと、立ち上がり、裁判を起こすことを決めて、
原告団を結成して、四日市地方裁判所に提訴をしました。
――続くーー
四日市公害と環境未来館では、四日市公害勝訴45周年記念行事の一環として、
四日市公害写真展を実施ております。