今年も、巡ってきました。
3年前に、小学生の体験したこと、戦中戦後の記憶を、シリーズで連載しました。
あの頃の、数少ない語部の一人として、伝えておきたいと思います。
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戦後80年に、80年前の記憶を記すことは、おそらくかなわないであろうと思われる。
わずかばかりの記憶であるが、戦中戦後の語り部の一人として、何かの役に立てればと思い、記録しておきたい。
皆さんは、臭い飯を食べたことがおありだろうか。
そんな失礼なことを尋ねるまでもなく、あろうはずがない。
mcnjは、食べたことは無いが、嗅いだことはある。
昭和19年、日本の敗戦濃厚の時期であった。
その当時、mcnjは、松本市立清水小学校(当時は国民学校)1年であった。
入学してまもなく、校庭の両側にあった体操場の1つが閉鎖された。
松本50連隊の兵隊の一部ガ、引っ越してくると言うのである。
松本50連隊には、笹部に飛行場もあり、いずれ、米軍の空襲を受けることは、必死であると、軍部は考えたのであろう。
市内の小学校に分散して、兵力を温存しようと考えたのであろう。
体操場には、稲の藁が、うず高く積まれていた。
毛布を支給されたかどうかは、定かではないが、兵達は、その、藁の中に潜って寝ていた。
戦後、まだ放置されていた藁のなかで、良く遊んだものだが、割と、暖かかったことを覚えている。
mcnj達が朝、登校すると、兵達は、朝食の用意をし始めていた。
多ぜいの兵達の食事であるから、一人ひとりが飯盒で炊くようなことはしない。
大きな釜で、スチームを吹き込んで炊くのである。
釜や、米の洗浄不足のせいなのか、スチームのせいなのか、その匂いたるや、ものすごいものであった。
鼻をつまんで、教室の中に飛び込んだものだが、教室の中まで臭っていたものだ。
兵達は、その飯を、平気で食べていたが、まともな人間には、とても食えるものではなさそうに思えた。
おそらく、空腹に耐えられなくて、その臭い飯を口に入れたとたん、臭いなど気にならなくなったのであろう。
悪事を働いて、臭い飯を食わされた連中も、同じだったに違いない。
mcnj達が朝、登校すると、兵達は、朝食の用意をし始めていた。
多ぜいの兵達の食事であるから、一人ひとりが飯盒で炊くようなことはしない。
大きな釜で、スチームを吹き込んで炊くのである。
釜や、米の洗浄不足のせいなのか、スチームのせいなのか、その匂いたるや、ものすごいものであった。
鼻をつまんで、教室の中に飛び込んだものだが、教室の中まで臭っていたものだ。
兵達は、その飯を、平気で食べていたが、まともな人間には、とても食えるものではなさそうに思えた。
おそらく、空腹に耐えられなくて、その臭い飯を口に入れたとたん、臭いなど気にならなくなったのであろう。
悪事を働いて、臭い飯を食わされた連中も、同じだったに違いない。