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韓国文化の紹介。

戦後70年の記憶、食糧難、過去ログ

2018-08-19 00:00:20 | 日記

 本シリーズは、30回をこえる長編であるが、今回を持って終わりとする。

巻末に、シリーズのの目録を挙げておく。

ご興味のおありの方は、参照願いたい。

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腹が減っては、戦は出来ぬ。
戦争中なのに、食糧難であった。

米などは、もう、無かったと思う。
食べる物は、全部国が統制して、戦争を遂行するために使っていたと思う。
一般人の口へ入れる物は、国が配給していた。
大体、一家の人数に応じて配分されていたが、品物も、公平に行き渡るほどは用意されていない。
配給がある日は、隣組数軒が集まって、話し合って分け合っていたようだ。
家庭の好みなどもあったのだろう、要らないものや、要る物などを交換しあって、丸くおさめあっていたようだ。
我が家は、6人兄弟の大家族の方だったから、母は、不味くても、量の多い方を選んでいたようだった。
思惑通りに配分された時は、嬉しそうに、持ち帰っていた。

学校へ通う道路わきに、ヒマが植えられるようになった。
南方の石油基地をアメリカに抑えられて、原油の輸入が、思うようにならなくなったたのである。
飛行機を飛ばす、ガソリンにも、事欠くようになっていた。
ヒマの実から、ひまし油をとって、飛行機を飛ばそうと言う作戦である。

ある日、高学年生が、校庭に出て、鍬をふるっていた。
校庭を耕して、サツマイモを植えると言うのである。
グランドは、すべてサツマイモ畑に代わり、生徒たちは、その脇の、狭い通路を通って教室に入って行った。
その通路の両脇にさえ、トウモロコシがびっしりと植えられていた。
生徒達は、授業はほどほどにして、農作業に駆り出される毎日であった。

低学年のmcnj達は、草取り位が仕事であった。
午後の授業を休んで、熱い日中の日差しの中、せっせと、草取りをしたものである。
作業が終わると、駄賃に、一握りのサツマイモの茎をくれると言う。
母に渡すと、喜んでくれるので、それがうれしくて、小さい手の平に、茎が潰れるほど思い切り握って、家へ持ち帰って行った。

 

 

①あの頃の兵隊さん

②赤紙

③海行かば

④迷彩

⑤神風

⑥食糧難

⑦灯火管制

⑧欲しがりません 勝つまでは

 ⑨大本営発表

 ⑩竹槍と風船爆弾

⑪朝鮮人

⑫行進

⑬君が代

⑭教科書

⑮供出

⑯玉音放送

⑰威嚇飛行

⑱刀狩

⑲日本脳炎

⑳教科書の修正

 ㉑日本国憲法

 ㉒人間天皇

㉓戦争放棄

 ㉔運動会

 ㉕虱

 ㉖黄色いダイヤ

 ㉗金鵄勲章

 ㉘火炎ビン闘争

㉙マッカーサー

 ㉚帰って来た兵隊さん

番外編

 ①昭和天皇と沖縄

 ②無言館 戦没画学生達の記録