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花、蝶、ペット、旅行など。
韓国文化の紹介。

戦後70年の記憶 ⑫ 行進

2015-04-20 05:57:08 | 日記
小学校(国民学校)の体操場へ疎開して来ていた、松本50連隊の兵達は、ほとんど兵隊としてやることがなかった。
練兵場が無いのである。
校庭はあっても、もはや、薩摩芋畑と化していた。
炊事洗濯の他は、歩くことくらいで有った。
戦地での行軍の訓練であろうか、長い列を組んで、市内を歩き回ってばかりいた。

遠くから、兵達の足音が聞こえてくると、宿題を放り出して、外へ飛び出したものであった。
近所中の子供達が飛び出して来て、兵達と手をつないで歩いたものだった。
歩くと言っても、子供達に歩調を合わせてくれるわけではない。
兵達の歩く速さに、子供たちは、駆け足でついて行くだけで有った。
いい加減走らされると、さすがに疲れて、ついていけなくなり、手を放して、家路をたどった。

どう言うわけか、兵達と子供達の間には、心の絆の様なものが有った様だ。
二十歳を超えたばかりの兵と、子供たちの間には、ちょっと、歳の離れた兄弟の様な感覚が有ったのかもしれない。
軍部にしてみれば、将来の戦力として必要な、子供達のことを考えて、可愛がってやれと言う様なな指導がなされていたのだろうか。

学校でも、家でも、兵達は、お腹がすいて可哀想だと、よく聞かされた。
実際、食料が足りなくて、育ち盛りの若い兵達には、ひもじい毎日だったのかもしれない。
何か、食べるものがあったら、渡してやれ、と言う様なことを言われた記憶がある。
行進で手を繋いでもらう礼の様な気持ちで有ったろうか。
子供達は、母から渡された何がしかの食べ物を、手に握りながら、手を繋いでもらった兵に、それとなく握らせていた。
mcnjも、干した残飯を炒ったものや、炒った豆などを母からもらって、兵に渡していたものだった。
兵達は、歩きながら、渡された、わずかばかりの食べ物を、大事そうに、軍服のポケットにしまい込んでいた。
よく洗濯された兵の軍服の石鹸のにおいが、今でも、懐かしく思い出される。

戦後70年の記憶 ⑪ 朝鮮人

2015-04-18 05:47:19 | 日記
mcnjの住んでいた所は、松本市の旧市内のはずれであった。
その先は、今では松本市になってはいるが、その当時は、田畑が広がっている村であった。
松本の人間は、在と呼んでいたが、在から街に買い物に来るなどと言って、多少の、優越感をもっていたようである。
小学校1年生のmcnjには、在が何を意味するのか、知る由もなかった。
兄たちが、あいつらは、ザイッポだからな、などと言っているのを聞いて、街の人間とは、多少違うのかなと言うくらいの意識しか無かった。

mcnjのいたすぐ近くに、金山町と言う町があった。
すぐ隣町で、小学校区も一緒であった。
同じ町内の様なもので、学校でも、家でも、良く、子供同志で遊んだものであった。
町の名前から、すぐに察しが着くと思われるが、朝鮮人の多く住む所であった。
当時は、日本全国にあった、朝鮮人町の一つに過ぎなかったのであろう。

彼らが、なぜ、そこにいたのか、どのようにして、生計を立てていたのかなどは知らなかったし、知る由もなかった。
彼らが、強制連行されたのか、日本の新天地にあこがれて来たのかを、議論するつもりはない。
タイトルにある通り、ここに記されるものは、小学1年生の見聞きした幼い記憶だけである。
幼い記憶ではあるが、出来るだけ忠実に思い起こして書き残しておきたいと思う。
戦中戦後を経験した、今では数少ない語り部の一人として、義務の様なものを感じている。
小学1年生の見聞ではあるが、戦中戦後の真実を知る者の目から見れば、戦争に関して、喧々諤々と議論している、今の政治家達は、嘴の黄色いひよこか、鼻垂れ小僧くらいにしか見えない。
そんな鼻たれ小僧に、この国の未来を託して、いいものかと言う思いが、mcnjにはある。

朝鮮人の女たちは、気が強い。
女だけではなかったが。
国民性と言うものもあったかもしれないが、異国の地に来て、目いっぱい生きて行かなければならない面もあったのであろう。
朝鮮人の女同志で、良く喧嘩をしている所を見かけた。
殴り合いはしなかったが、取っ組み合って、髪の毛を束で掴んで引きずり回すようなことは、当たり前であった。
片方は、髪の毛を引き抜かれて、頭から血を流していた。
mcnjは、母の陰に隠れて、遠くから眺めているだけであったが、怖いものだと思っていた記憶がある。

夜になると、灯火管制で、町は暗闇に包まれるが、突然大声が聞こえて来た。

ポクウ~、ポクウ~、
ハヤクコ~!
チヌデ コ~!

夫婦喧嘩か、近所の日本人との軋轢でもあったのであろうか。
mcnjは、暗闇の布団にもぐって、震えていた。

ボクが、僕なのか、朴だったのかはわからない。
当時の朝鮮人は、皆、日本名を名乗らされていたから、たぶん、自分たちの本名の朴だったのかもしれない。

兄達は、朝鮮人の学友をからかうときに、良く言っていた。
朝鮮人の母親が、わが子を庇うときに、兄達をしかりつけて言った言葉である。

チョウセンジン、チョウセンジント、パカニスルナ。
オナジ メシクテ トコチガウ。
ウソタト オモタラ ベントパコ ミロ、ベントパコ。

mcnjは、この家の子供と、中学卒業まで一緒であった。
遊ぶ時も、学ぶ時も、仲の良い友達であった。
彼が、今どうしているか、気にはなっているが、知らない。
mcnjと同じように、どこかで、戦後70年の出来事を、思い出していてくれるなら、ありがたいことであるが。


ここで、誤解の無いように、一言付け加えておきたい。

本稿で、mcnjは、朝鮮人と言う言葉を、差別的に使った意識は、毛頭ない。
mcnjは、日本の化学会社に勤務した後、定年の3年前に、韓国の化学会社に出向となり、そのまま定年退職した。
退職後、そのまま、韓国の友人m,cの二人と、mcnjの3人でソウルに会社を興した。
mcnは、3人の頭文字である。
これに、japanのjを付けてHNとしている。
韓国では、m,cの他にも、たくさんの友人と付き合っている。

朝鮮と言う国名の起源であるが、秦漢以前にさかのぼり、朝が鮮やかな国と言う意味で、中国に対抗して付けられた名誉ある国名である。
のちに、李王朝の時の朝鮮と区別するため、古代朝鮮を古朝鮮と呼んで区別する。
韓国では、朝鮮と言う言葉は、忌み嫌われる。
これは、北朝鮮が、朝鮮を名乗っている面もあるが、mcnjが、ソウルの友人に、
どうしてお前達は、朝鮮と言う由緒ある言葉を嫌うのかと質問した時、このような返事が返って来た。

李氏朝鮮が、日本によって受けた屈辱を考えると、朝鮮と言う言葉は聞くに耐えられない。

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過去ログを整理してリンクしておこうと考えたが、どうもうまくいかない。
仕方が無いので、小分けして、付記しておくことにする。

過去ログ

戦後70年の記憶 ① あの頃の兵隊さん

戦後80年に、80年前の記憶を記すことは、おそらくかなわないであろうと思われる。
わずかばかりの記憶であるが、戦中戦後の語り部の一人として、何かの役に立てればと思い、記録しておきたい。

皆さんは、臭い飯を食べたことがおありだろうか。
そんな失礼なことを尋ねるまでもなく、あろうはずがない。
mcnjは、食べたことは無いが、嗅いだことはある。

昭和19年、日本の敗戦濃厚の時期であった。
その当時、mcnjは、松本市立清水小学校(当時は国民学校)1年であった。
入学してまもなく、校庭の両側にあった体操場の1つが閉鎖された。
松本50連隊の兵隊の一部ガ、引っ越してくると言うのである。
松本50連隊には、笹部に飛行場もあり、いずれ、米軍の空襲を受けることは、必死であると、軍部は考えたのであろう。
市内の小学校に分散して、兵力を温存しようと考えたのであろう。
体操場には、稲の藁が、うず高く積まれていた。
毛布を支給されたかどうかは、定かではないが、兵達は、その、藁の中に潜って寝ていた。
戦後、まだ放置されていた藁のなかで、良く遊んだものだが、割と、暖かかったことを覚えている。

mcnj達が朝、登校すると、兵達は、朝食の用意をし始めていた。
多ぜいの兵達の食事であるから、一人ひとりが飯盒で炊くようなことはしない。
大きな釜で、スチームを吹き込んで炊くのである。
釜や、米の洗浄不足のせいなのか、スチームのせいなのか、その匂いたるや、ものすごいものであった。
鼻をつまんで、教室の中に飛び込んだものだが、教室の中まで臭っていたものだ。
兵達は、その飯を、平気で食べていたが、まともな人間には、とても食えるものではなさそうに思えた。

おそらく、空腹に耐えられなくて、その臭い飯を口に入れたとたん、臭いなど気にならなくなったのであろう。
悪事を働いて、臭い飯を食わされた連中も、同じだったに違いない。

過去ログ

戦後70年の記憶 ② 赤紙、安倍晋三

センセーショナルなタイトルにしてしまったが、別に、個人的に恨みがあるわけでは無い。
岡田でも、江田でも良かったが、出来るだけインパクトのある方を選んだ。。
なるべく、多くの人に、関心を持ってもらえたらと思って、利用させていただいたに過ぎない。


同じ町内の幼友達、○田の一番上の兄に赤紙ガ来た。
勿論、当時、国民学校1年だったmcnjに、赤紙の詳しい意味がわかるはずが無い。
それでも、赤紙が来た者にとって、非常に深刻なものであったらしいことは、なんとなくわかっていた。

Wikipediaには、次のように解説してある。
皆さんも、ぜひ、この機会に、調べて見ていただきたい。

赤紙:大日本帝国憲法の徴兵制に基づいた召集令状によって発せられる通達書である。
召集とは、その地域の最高権力者が命じて、召し上げる(自分のものとして呼び集める)集人命令のことである。
召集者は、当然のことながら、大日本帝国の最高権力者、天皇である。
日本国憲法における自衛隊は、召集ではなくて、招集を使う。
召し上げるではなく、招くと言う意味である。
ちなみに、日本国憲法国会においては、唯一、例外的に、召集が使われている。
文献、PC変換で、召集が目に止まったら、それは、誤字、誤り、認識不足、PCの故障である。

召集令状には、召集の目的により、赤、白、青の用紙が使われた。
赤紙が使われた召集は、
充員召集、臨時召集、帰休兵召集、国民兵召集、補欠召集であった。

徴兵は、20歳以上の男子で、戸主、家業主宰者、学徒を除くものが、対象とされ、20歳になると、誰もが、徴兵検査を
受けさせられた。
検査結果により、甲乙丙丁戊に区分され、最も壮丁な甲が重用された。
太平洋戦争末期には、9割以上の該当男子が徴兵されたが、それでも足りず、徴兵年齢を19歳まで引き下げたり、文系学徒に、自主的い応募させたり、女子挺身隊の名のもとに、女子学生も徴用された。

赤紙は、郵便ハガキにたとえられ、当時のハガキ切手が一銭五厘であったため、いつでも赤紙一枚で補充がきく兵は、
一銭五厘とたとえられた。

○田の兄が、赤紙を受けて、いよいよ、出征と言う時に、mcnjは、母親に連れられて壮行に行った。
町内の有力者、教師、などが、入れ代わり立ち代わり、壮行の辞を述べた。
どの演説も、行って、お国のために尽くせ、立派に陛下のために死んでこい、と言うような内容であった。
○田の兄の両親も、極力深刻な表情を抑え、息子は、名誉ある甲種合格で、戦場に行くと言うような挨拶をしていた。
最後に、○田の兄が挨拶したが、最後の方は、言葉にならず、お母さん、それでは、行って、、、、、と号泣してしまった。
周りの者たちも、急にに黙りこくって、軍服を着て、陛下から賜った鉄砲っを担いで、去って行く○田の兄を見送っていた。
普通なら、勝って来るぞと 勇ましくウ~~と、大声で歌って送り出す所であるが。


過去ログ

戦後70年の記憶 ③ 海行かば

名前は忘れてしまったが、怖い先生がいた。
悪い先生ではなかったが、顔が河馬に似ていて、厳しい先生であったそうだ。
そうだ、と言うのは、主に上級生の担当だったらしく、mcnjのような、低学年の生徒には、縁が無かったからである。

戦争も末期であったから、上級生たちは、授業よりも、体育訓練の方が多かった。
いざと言う時のために、体を鍛えておけ、と言うのだろう。
小学校6年を卒業すると、高等小学校へ進んで、2年勉強する。
校舎も同じであった。
体育訓練には、小学上級生(4,5,6年生)と高等小学校生(今の中1,2年生)が参加して行われていた。
その訓練担当教師が、カバ先生であった。
校庭に集合させては、相当厳しい訓練をさせていたらしい。
軍事教練と称して、戦争ごっこのような訓練を、授業に取り入れていた。

南北に二つあった体操場のうち、南の一つは、松本五十連隊の兵達が使っていたから、もう一つは、雨天の時の訓教練と、講堂としての使い道が主であった。
毎週月曜日の朝とか、国の祝い事の時などには、体操場に整列させて、校庭の一角にあった奉安殿(陛下の写真を収めた保管庫)から写真を持ってきて正面に飾って、校長や、軍から派遣されて駐在していた軍人が、訓示を垂れた。

式が終わると、軍歌を歌わせられたのであるが、タイトルの「海行かば」もよく、歌わされた。
mcnjのような低学年生は、歌の意味など知る由もなかった。

ウミユカバ
ミズクカバネ
ヤマユカバ
クサムスカバネ
オオギミノ
ヘニコソシナメ
カエリミハセジ

こんな歌詞であったと思うが、意味は、成人するまで知らなかった。
戦争がおわってからは、歌うことも、思い出すことも無かったからである。

生徒達は歌い始めると、「カバ」のところに来ると、突然、大声を出して、力強く歌ったものだった。
まるで、軍事教練に対する恨みを晴らすかのように。


過去ログ

戦後70年の記憶 ④ 迷彩

終戦になり、戦前、戦中教育は終わりを告げた。
このことは、過去ログ松本開智学校でもとりあげた。↓
http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=d939cd0f1dc9ff23424ba916c1514266&p=1&disp=50

mcnjが2年の時、敗戦となった。
進駐軍が進駐して来ると、日本政府の教育方針の間違いが指摘され、教科書が訂正された。
訂正と言っても、書き直したり、再発行されたわけではない。
今まで使っていた教科書の、都合の悪い所だけ消して使えと言うのであった。

昨日まで、教師が、ここは大切なところだから、良く、覚えよ、と言って教えていた所を、ここは、間違いである。
消せ、と言うのである。
授業中に、硯で墨をすらせて、教師が消す箇所を読み上げ、生徒が筆で、その通り消すのである。
mcnjは、四男坊であったから、教科書は、上から払い下げて、順番に使わせられていた。
自分の使っていた教科書は、自分で消して使ったが、何年か後では、もう、消されていた教科書であった。

日本が、敗色濃厚の時であった。
信州の田舎の松本も、空襲が近いと言うので、その対策を迫られた。
学校には、軍隊が避難していると言うことは、米軍のことだから、当然、承知していたはずである。
軍部は、上空から、飛行機に発見され無いように、校舎の屋根に、迷彩を施すと言うのである。
その頃は、軍部でも、物資が払底しており、屋根に塗るペンキにも事欠いていたらしい。
図画の時間に、生徒に持って来させた絵具を、必要な色だけ各人に溶かさせて、兵隊たちが、バケツに入れて回収して行った。
それからしばらくは、兵隊たちは、校舎の屋根の上に上がって、毎日のように、迷彩を施していた。

↓ブログのお友達のRWさんの記事です。
戦後70年の記録も、たくさん載せていらっしゃいます。
ぜひ、ご覧になってください。
http://rolingwest.exblog.jp/23729952/

↓これまでの、戦後70年の記憶です。

http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=e3ebc9fae9dec4862c6aa84c4fee63d7&p=1&disp=50
http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=93c94ce8c81ca6bf552bbc2580ac5daa&p=1&disp=50
http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=e310c365767737d4de6fb1c626c3096e&p=1&disp=50

http://blog.goo.ne.jp/goomcnj0561/e/e310c365767737d4de6fb1c626c3096e


過去ログ

戦後70年の記憶 ⑤ 神風

mcnjの住んでいた所は、美ヶ原のふもと、いくつかの中小河川が造った扇状地の上であった。
小学校名の清水もそうであるが、源池、出川など、湧き水に因んだ地名が多くあるところであった。
魚屋、八百屋、酒屋など、商売屋は、たいてい、年中こんこんと湧き出る井戸を持っていた。

一般家庭でも、隣組で井戸を持っており、主婦たちは、共同で炊事洗濯に使ったり、文字通り、井戸端会議に、
花を咲かせていたものである。

下流の方には、水神様が祀られて、ちょっとした、池があった。
きれいな水が蓄えられており、その端には、樹齢数百年と言われた、大きな欅の木があった。

mcnjが、小学校に入学した、昭和19年4月は、日本海軍が、南方の大きな戦争で負けた後で、教室でも、教師達が、
アメリカが、どこどこの島に上陸したと言うような話を、深刻そうな顔で、話しているのを、子供心に、不安げに聞いて
いたことを覚えている。

戦況は、ますます、悪化するばかりであった。
近所の年寄達は、大昔の、蒙古来襲の話を持ち出して、いざと言う時は、神風が吹いて、アメリカの艦船を吹き飛ばして
しまうから、心配するなと言っていた。
新聞や、ラジオでは、どこかの大きな神社の鳥居が、揺れて傾いたのは、神様が出兵されたのだ、と言うような話しが、
まことしやかに報道されていた。

そんな折、ある夜、水神様の欅の木に雷が落ちて、欅の木は、半ばから折れてしまった。
人々は、それを見に行って、いよいよ水神様も、ご出兵なさって下さった。
これで、神風が吹いて、日本が勝つことは間違いない、と言って、大いに喜んでいた。
しかし、その後も、神風が吹くことはなかった。




http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=e3ebc9fae9dec4862c6aa84c4fee63d7&p=1&disp=50
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http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=e310c365767737d4de6fb1c626c3096e&p=1&disp=50
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戦後70年の記憶 ⑩ 竹槍と風船爆弾

2015-04-16 05:38:42 | 日記
昭和20年に入ると、戦況はますます厳しいものになって行った。
国民の戦う意欲はまだ有ったものの、肝心の、物資がなくなっていた。
大本営は、あらゆるもので対抗することを考えたのだろう、国民に竹槍で武装するよう呼びかけた。
国民に、竹を切って来させて、竹先をとがらせて訓練を始めた。
訓練されたのは、主に、女性である。
母達が、モンペ袴姿で、近所の空き地で、黄色い声を張り上げながら竹槍をふるっている姿をよく見かけた。
大本営は、こんな戦況下に置かれても、本土決戦と1億総玉砕を唱えていた。

小学高学年、高等小学校生も例外ではなかった。
男子は剣道、女子は薙刀が、体育の授業であった。
もし、本土決戦となったら、沖縄のひめゆり部隊の様に、駆り出されていたことであろう。

一方、大本営は、何とかして、アメリカ本土へ、打撃を与えよう考えていた。
当時の学者達が、知恵を絞ったのであろう。
上空を流れる偏西風を利用して、爆弾を付けた風船をアメリカまで飛ばそうとする作戦であった。
しかし、風船をつくるゴムが無かった。
仕方なしに、紙で風船を作ったのであった。
この紙風船が、アメリカ本土まで届いたかどうかは、いまだ知らない。
ずっとのちになって、週刊誌で読んだのだが、戦争末期に、アメリカ東海岸の山中で、不思議な山火事が有ったとかで、これが、風船爆弾の戦果ではなかったと、書かれていた。

↓の戦後70年の記憶 ⑤神風でも書いたが、つくづく、大本営は、カミ頼みが好きだったものである。

高校生になってから物理の授業で聞いた話で有るが、風船爆弾に味をしめた大本営は、学者たちに命じて、戦争に勝つための知恵を出させたとのことであった。
その先生の発明では無いが、有る学者が、小舟で、大砲を撃てる技術を発明して、大本営から表彰されたそうである。

その技術とは、こう言うものであったそうだ。

小舟から大砲を撃てば、その反動で船はひっくり返ってしまう。
それを防ぐためには、同時に、反対側へも、大砲をうてばいい、と、言うものであった。

物理学に詳しくない軍部の人間達は、大喜びしたのであろう。
しかし、物理の先生は、笑って言ったものである。
水平に撃つなら別だが、上空に撃つとしたら、正反対の海の中にも撃たなければならない。
しかし、軍部は、こう言ったそうだ。
海中ではなく、正反対の空に向かって撃つのだと。
しかし、これも、物理学を知らない者の言うことである。

力と言う物は、ベクトルである。
ベクトルを合わせないと、力はゼロにはならない。
この方法では、海中真下に向かうベクトルが残ってしまい、船は、海中に沈むことになる。
この程度の物理の原則は、高校生でさえ、理解できることで有った。