本を出すので5月中に書きあげれば後は少しの直しでいいと思っていたのは、他の原稿を書きたかったからです。
劇作家コースは年に2回作品を出すというのが建前です。
どちらにしろ、5月から空いた時間でそれを書きたいというのはあった。
特に深い理由があって、今回は絶対書きたかった。
話は同じ2009年の2月末に戻ります。
2月末で1つの年度が終わります。授業が終わるということです。
そこで思いがけないことが起きたわけだ。
ところで岸田國男戯曲賞というのをご存知でしょうか。演劇界の芥川賞と呼ばれている賞です。
近年では、宮藤官九郎さん、三谷幸喜さんなどが受賞されてる賞です。
戯曲を書く者にはある種の憧れの賞かもしれないです。
私は高嶺の花なので、手が届くと考えたことはなかったです。
どう考えても高嶺の花で高い山の崖の先端に咲いてるような賞だったわけです。
もちろんつか先生もかつて受賞してます。その当時としては最年少の受賞です。受賞作は「熱海殺人事件」だったと思います。ここから大きく運命が変わられた。
「つか以前つか以後」という言葉が生まれるのです。
そんな遠い存在のはずの賞が突然、目の前に降りてくるのですね。
なんでか、突然に。
本来(以下岸田戯曲賞)はその年に上演された芝居、雑誌などに発表された戯曲からノミネートをされて、そこから選ばれます。
それが何故か、つか先生が
自分の推薦枠で持って行くから9月末までに書かせろ
とおっしゃったようです。
青天の霹靂
理解不能の極致
全員で同じ話を聞いたはずなのにあとで個々で話すと、全く違うことを言う。
いやそうじゃなくて。あれは…。の世界です。
なんたって幼稚園児が突然大学受験に挑戦するようなものです。
理解できなくて当然なのです。
でも劇作家コースと言っても20人くらいはいるのです。
いくらつか先生と言えど20人は持ち込めまい。じゃどうするの?
(この話はその年の入所式でも先生ご本人がされているようです)
答えはこの時点ではないのです。
多分、先生の頭の中にはあったのでしょう。
それは今となっては永遠に聞けなくなってしまいましたが…。
劇団の芝居をご覧になった方はご存じでしょうが、この2009年はいやに劇作家コースの芝居が多かったのです。1年に1度か2度が当たり前の公演回数に対して明らかに多かったのです。
裏にはそんな事情があったのです。
まあ、あったのです、と言っても私はもう自分の本を仕上げることで手いっぱいで、この辺の細かい事情はまるで感知していません。
二兎追うものは一兎も得ず
それは嫌というほどよく判っていた。
もう1月の段階で本を出すことは決まっていた。
そのあとに出てきた岸田戯曲賞推薦話である。
どうして共に起きる?と思っても同時に起きてしまったものはしょうがない。
2月末の時点では時間もあったし、もしかしたらどうにかなるのでは…と思っていた。
5月末までに小説を書きあげれば時間ができる。そこから4か月フルに使えればもしかしたら可能じゃないか。
思っていたが。
8月になってもまだ直している。
10月の頭の段階でまだ直していた。
でも9月末までに作品は出したんですよ。
というとことはどこかでどちらかを休み、書きあげたってことですね。
この辺の記憶すでに定かでありません、それくらいぐちゃぐちゃとにかく書かなきゃなんない、それしか頭になかった。
1度頭が突き抜けたもの。
薬でもやっているのか―というくらい、綺麗に抜けた。
しかし岸田戯曲賞の話はやがて判らなくなっていく。
私が先生のご病気を知ったのは、翌年1月の報道でだった。
そりゃ、無理はなかったのだ。
おそらく逆算していくとご病気が発覚したのと岸田戯曲賞の推薦の話が進むだろう時期が一致しているのである。
それどころじゃなかったのである。
岸田戯曲賞推薦話は、最後はから騒ぎに終わったようなものだった。
しかし1年近い夢を見せていただいたのである。こんなチンピラのお姉ちゃんでさえ、もしかしたら演劇界の芥川賞と呼ばれる賞に手が届くかもしれないという、信じられない夢を見させていただいたのである。
マッチを売ることでしか生きていけなかったような少女が、もしかした普通に学校へ行ける、みんなと同じように勉強ができるそう思ったのと同じくらい大きな夢をもらったのだ。
これはいつまでも自分の中で支えとなって生きていくだろう。
それほど大きな夢を見られることを教えられたのである。
希望をいただいたのである。
不可能はないと、教えていただいたのである。
だからこの後私を襲う不幸を…試練を乗り越えて行けたのかもしれない。
私の不幸
もしくは私の試練…本当にこんなことってあるんだ。
それはまだまだこの時始まったばかりだった。
劇作家コースは年に2回作品を出すというのが建前です。
どちらにしろ、5月から空いた時間でそれを書きたいというのはあった。
特に深い理由があって、今回は絶対書きたかった。
話は同じ2009年の2月末に戻ります。
2月末で1つの年度が終わります。授業が終わるということです。
そこで思いがけないことが起きたわけだ。
ところで岸田國男戯曲賞というのをご存知でしょうか。演劇界の芥川賞と呼ばれている賞です。
近年では、宮藤官九郎さん、三谷幸喜さんなどが受賞されてる賞です。
戯曲を書く者にはある種の憧れの賞かもしれないです。
私は高嶺の花なので、手が届くと考えたことはなかったです。
どう考えても高嶺の花で高い山の崖の先端に咲いてるような賞だったわけです。
もちろんつか先生もかつて受賞してます。その当時としては最年少の受賞です。受賞作は「熱海殺人事件」だったと思います。ここから大きく運命が変わられた。
「つか以前つか以後」という言葉が生まれるのです。
そんな遠い存在のはずの賞が突然、目の前に降りてくるのですね。
なんでか、突然に。
本来(以下岸田戯曲賞)はその年に上演された芝居、雑誌などに発表された戯曲からノミネートをされて、そこから選ばれます。
それが何故か、つか先生が
自分の推薦枠で持って行くから9月末までに書かせろ
とおっしゃったようです。
青天の霹靂
理解不能の極致
全員で同じ話を聞いたはずなのにあとで個々で話すと、全く違うことを言う。
いやそうじゃなくて。あれは…。の世界です。
なんたって幼稚園児が突然大学受験に挑戦するようなものです。
理解できなくて当然なのです。
でも劇作家コースと言っても20人くらいはいるのです。
いくらつか先生と言えど20人は持ち込めまい。じゃどうするの?
(この話はその年の入所式でも先生ご本人がされているようです)
答えはこの時点ではないのです。
多分、先生の頭の中にはあったのでしょう。
それは今となっては永遠に聞けなくなってしまいましたが…。
劇団の芝居をご覧になった方はご存じでしょうが、この2009年はいやに劇作家コースの芝居が多かったのです。1年に1度か2度が当たり前の公演回数に対して明らかに多かったのです。
裏にはそんな事情があったのです。
まあ、あったのです、と言っても私はもう自分の本を仕上げることで手いっぱいで、この辺の細かい事情はまるで感知していません。
二兎追うものは一兎も得ず
それは嫌というほどよく判っていた。
もう1月の段階で本を出すことは決まっていた。
そのあとに出てきた岸田戯曲賞推薦話である。
どうして共に起きる?と思っても同時に起きてしまったものはしょうがない。
2月末の時点では時間もあったし、もしかしたらどうにかなるのでは…と思っていた。
5月末までに小説を書きあげれば時間ができる。そこから4か月フルに使えればもしかしたら可能じゃないか。
思っていたが。
8月になってもまだ直している。
10月の頭の段階でまだ直していた。
でも9月末までに作品は出したんですよ。
というとことはどこかでどちらかを休み、書きあげたってことですね。
この辺の記憶すでに定かでありません、それくらいぐちゃぐちゃとにかく書かなきゃなんない、それしか頭になかった。
1度頭が突き抜けたもの。
薬でもやっているのか―というくらい、綺麗に抜けた。
しかし岸田戯曲賞の話はやがて判らなくなっていく。
私が先生のご病気を知ったのは、翌年1月の報道でだった。
そりゃ、無理はなかったのだ。
おそらく逆算していくとご病気が発覚したのと岸田戯曲賞の推薦の話が進むだろう時期が一致しているのである。
それどころじゃなかったのである。
岸田戯曲賞推薦話は、最後はから騒ぎに終わったようなものだった。
しかし1年近い夢を見せていただいたのである。こんなチンピラのお姉ちゃんでさえ、もしかしたら演劇界の芥川賞と呼ばれる賞に手が届くかもしれないという、信じられない夢を見させていただいたのである。
マッチを売ることでしか生きていけなかったような少女が、もしかした普通に学校へ行ける、みんなと同じように勉強ができるそう思ったのと同じくらい大きな夢をもらったのだ。
これはいつまでも自分の中で支えとなって生きていくだろう。
それほど大きな夢を見られることを教えられたのである。
希望をいただいたのである。
不可能はないと、教えていただいたのである。
だからこの後私を襲う不幸を…試練を乗り越えて行けたのかもしれない。
私の不幸
もしくは私の試練…本当にこんなことってあるんだ。
それはまだまだこの時始まったばかりだった。