ジャクリーン(愛称、ジャッキー)は第35代JFKのファーストレディーとして有名だ。
彼女はNY生まれ。
父はフランス系移民、母はアイルランド移民だった。
彼女が幼い頃、両親は離婚し、継父がいるが、とてもいい関係を築いていた。彼女には妹が1人いる。
彼女は大学時代、フランスに留学している。そして最終的に米国の大学を卒業し、ワシントンの新聞社で記者を社交欄を担当していた。
この当時、婚約者がいたが、上院議員だったJFKと出会い、彼と結婚した。
そして、彼女のファーストレディーの道が始まる。
彼女がファーストレディーだった頃、ホワイトハウスはベルサイユのようになっていたという。
元々フランスにいた経験もあり、デザイナーもフランス人を好んだ。
しかし、JFKの暗殺により、1961~1963年で彼女のファーストレディー人生は終わっている。
終わったが、ケネディー家から出ることができなかった。
2人の間には
アラベラ(1956年に死産)
キャロライン・ブービェ・ケネディ(1957年生)
ジョン・F・ケネディ・ジュニア(1960-1993年)
パトリック・ブービェ・ケネディ(1963年生、生後間もなく死去)
の4人の子がいた。
しかも、夫の暗殺の3か月前に子どもを亡くしていた。遊説に行くことは彼女は少なかったという。その少ない遊説の1つがあのダラスでのものだった。
JFK運命の地となったテキサス州ダラスへの遊説当日、ジャッキーにあのピンクのスーツを着るように言ったのは、ケネディーだったという。
ケネディーは様々な呼ばれ方をしたが、ジャクリーヌはジャックと呼ぶことを好んだ。そして彼女はジャッキー。
ジャックとジャッキーは一心同体だったとのちに語っている。
そして1963年11月22日あの暗殺という悲劇が起こる。
この年、ジャッキーは末の子、パトリックを亡くしている。そしてそのあと夫までも亡くした。暗殺という正気ではいられない方法で、しかも自分の横で自分に向かって倒れ込んできた夫を受け止めることまでしている。
尋常な神経ではいられないだろう。
わが子と夫を…同じ年に亡くす。そしてずっとマスコミは彼女を追いかける。
悲劇中の悲劇の女性と呼んでもおかしくない。
10日、ワシントンに戻ったジャッキーは家に籠った。そして黒服に身を包むことになる。
ジャッキーは夫が亡くなって、使命とはいいつつ、すぐに副大統領のリンドン・ジョンソンが宣誓をし、新大統領となる。このジョンソンは、野心家であったが、粗野で北部の出身、スマートな南部の出身のJFKとは違った。
ジョンソンは隣りにジャッキーをおいた方がいいだろうと、夫を亡くして1時間程度のジャッキーを隣りに立たせ、ワシントンに飛び立つ前の飛行機の中で宣誓をした。
ジャッキーは彼を嫌っていたという。
しかし、ジャッキーが嫌った人物は彼だけではない。
あの愛していたはずのフランスの大統領ド・ゴールでさえ、粗野で野心家と嫌った。この当時はFJKはまだ生存していたが、ド・ゴールはジャッキーの滞在中、彼女をずっと目で追っていたという。
ジャッキーがまだ気にいっていたのは、文相のマルローだ。彼とは知性のぶつかり合いで気があった。そしてこのとき、NYの美術館へあの「モナリザ」が貸し出されてくる。
大きな功績であった。
しかしのちにマルローもド・ゴールの忠犬と判り、険悪するようになる。
あくまで彼女のヒーローは夫のジャックだけだった。
しかし、そのジャックはアジソンン病を患っており、背中、腰の痛みに悩んでいた。
そして彼の女癖の悪さ…。
秘書、モデル、女優、娼婦、研究生まで手を出していた。
ジャッキーにイタリアやギリシャに旅行に行っておいでという時は浮気をしているようなときだったらしい。
しかし、不思議なことにのちに彼女が再婚する、ギリシャの海運王・オナシスには注意しろと言っていた。
ジャックは元々大腸等が悪く、身弱だった。そしてアジソンン病を患っており、背中、腰の痛みに悩んでいた。
一部、検視がおざなりだったのは(ワシントンとダラスでの病院での検視には差があると言われる)のは痛みを抑えるため、大統領になる前からJFKが鎮痛剤とコカインを使っていたからだという。大統領時代も、それが続いており、それ外へ出ることを恐れて、おざなりになったという話もある。
それほどの痛みに耐えていたわけだ。
ジャックの弟ロバート(ロビー)を頼ることから、仲が疑われることがあった。ロビーはジャッキーのため、誠心誠意尽くす。それはロビーの妻、エセルが嫉妬するほどのものだった。
それが、義姉に対するものなのか、元大統領夫人に対するものなのか、もう判らない。
実際、自分が浮気を重ねていたため、彼女にそれを投影し、最愛の夫であるジャックも「本当に俺の子か?」とジャッキーの浮気を疑っていたこともあるという。
それでもジャッキーにとって最高のヒーローはジャックだった。
ジャッキーが、ケネディーを出ることができたのは、そのロビーが暗殺された後だった。
彼女の1つの運命が、それをきっかけに終わりを告げた。
あの日のピンクのスーツとバックは洗濯もされないまま、ワシントン国立公文書館に保管されている。
1日空気を3回入れ替え、暗殺の日以降、誰の目にも触れていない。このあとも90年は公開されないと言われている。
娘のキャサリンはこのスーツをジャッキーの死のあと、2103年まで公開しないという条件でスーツを寄与したそうだ。
夫が選んだ最後のスーツ…。
また、メリーランド州の公文書館には、スーツ以外の青いシャツとストッキング、青い靴などが保管されている。
1963年に34歳で未亡人になったジャッキーの人生は1994年に幕を閉じた。
今、1人生きている娘、キャサリンは米国から米国駐日大使として日本へ着任している。