~ 恩師の「心行の解説」上巻より ~
講演 一
「実践のなかにこそ生命が宿ることを知れ」
先の続き・・・
以前に、八百年も地獄に迷っておられる方が出てきました。
その方に「八百年の間に、あなたの子孫の方は
あなたにどれほどの経文を供養しましたか。
八百年間、あなたはどれほどの経文の供養を受けましたか。
それによって救われなかったのですか」と聞きますと、
その霊が言われましたね。「あれは何にもならんのう」と。
「どうしてですか」と聞きますと、
「意味が難しくて訳が分からんわい」。
すなわちお経の意味が分からないとおっしゃたのです。
だから、いくらお経をあげても何にもならないのです。
またお茶についても聞きました。「あなたが所望されたら、
子孫の方はどれほどのお茶を献じましたか。
お茶によって救われましたか」と言いますと、
「いや、救われない。満たされることができない」と答えられます。
それは、いくら供えてもらっても満足できないのです。
その時、「ああ供えてくれたなあ」という一時の心の納得というか、
供えてくれたという思いはあるのですけれども、
いつまで経っても満足を得ることはできません。
また、供物についても聞いてみました。
「今日までにどれほどの供物を子孫の方はあなたに捧げましたか」。
しかし、供物によっても満足は得られなかったと言われます。
戒名などはなを傑作です。
「よき戒名を付けてもらったでしょう」と聞きますと、
「あれは何にもなっておらん」。「どうしてですか」と尋ねますと、
「わしが死んだ後のことはわしゃ知らん」と、こう言われました。
今日のこの会場には、お坊さんはお見えになっておりませんね。
お坊さんの営業妨害になると叱られますので。
「戒名」について、昨夜のテレビで言っていましたね。
「お寺さんの戒名がいくら、お布施がいくらと決めるのは、
これはちょっと宗教上おかしい。
だから宗教法人への税金を考えなくてはいけない」というようなことが、
ニュースとして出していましたね。
まるで商売です。
~ 感謝・合掌 ~