~ 恩師の「心行の解説」上巻より ~
講演 一
「われいま見聞し 正法に帰依することを得たり」
先の続き・・・
久米田のお大師様のお堂に、
おばあちゃん方が七、八人遊びにきているのですね。
そこで屯して、人の悪口、お嫁さんの悪口の
言い合いをしています。
そこのトイレに行かせてもらいますと、
なんとその汚いこと、もう男便所の
下はおしっこでベタベタですし、女便所に入りますと、
そこらにうんちがあちこち盛り上げてあります。
お参りに来てそんな所で屯しているのだったら、
ちょっとお便所の掃除をしたらよさそうなのものですね。
実践がないのです。
それで、あまりに汚いので一週間に一度、
私たちがバケツとホースと床ずりなど一式を持って
掃除をしに行ったのです。
私と姉と、姉の義弟のお嫁さんなどは、
その山盛りのうんちを新聞紙に包んで捨て、そのあと、
水できれいに洗って掃除をしていたのですね。
ところが今度行きましたら、またいっぱい山盛りに
汚れているのです。
一年くらい毎週日曜日に掃除通いましたが、
これは叶わないと思いまして、
ちょっと嫌味の歌を作って、ベニヤ板に書きまして、
それを便所の入口のところに打ち付けたのです。
御仏の慈悲はここにも満ちあふれ汚れは仏の心悲しき
さあ、それ以後は全くうそのように汚れなくなりました。
この僅かな短い歌の言葉によって汚れないのです。
一度見に行って下さい。
今も板が貼ってあります。
それ以後、お便所は全く汚れておりません。
その後、岸和田のある婦人会の方たちが日を決めて
掃除に行ってくれているそうです。
それまでは、
便所の掃除ということに気付かなかったのですね。
お寺参りをしましても、
皆さんがお寺で拝む場所だけが仏様のおられる場所とは
違うのです。
お便所の中にも仏様の慈悲は満ち溢れています。
お便所は汚いところだから仏様はおられない、
と思うからうんちで汚してしまうのですね。
そして横へ横へ盛り上げて、ちゃんと穴があいているのに、
その横にうんちの山がいっぱいできているのです。
いくらお寺にお参りしても、その行いがなかったら、
百日、千日、仏様の前に坐っても何にもなりません。
それよりも便所が汚れていたら、
自分も使わせていただくのですから、
掃除をして清めてこそ実践です。
私の母は、
「いかにもお前のマジナイはよう効くなあ」と
言って褒めてくれました。
先に掲げたった一つの短い言葉で効いたのです。
それからもう十年近くになると思いますが、
今でもそのお大師様のトイレは綺麗です。
法に帰依するならば、そのように行うことです。
これが「われいま見聞し 正法に帰依することを得たり」です。
正法からはずれた想念、行為、言葉をもって
正法を語っておりましても、これは正しくありません。
正見、正思、正語、そして正しい行いこそがいちばん
大事かと思います。
~ 感謝・合掌 ~