浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「心行の解説」より。

2014-01-16 00:34:03 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                                   ~ 恩師の「心行の解説」より ~


                        先の続き・・・

                        引力は目に見えませんが、ちょうど歯車のギヤのようなつとめをしております。
                        銀河系にはこの太陽系のような星の塊が二十億個もあるそうです。
                        太陽系の中で地球という生物の生存を許された星が一個あるということは、
                        十分の一の確率ですね。
                        十分の一に生物が生存可能な環境を与えられていますから、
                        別の太陽系にもやはり同じような確率で地球のようなものがありますと、
                        この銀河系だけで生物の生きている星は約二千億個あることになります。
                        その中には地球よりももっと古い歴史を持った星もありますし、
                        また地球よりも若い星もあります。
                        古い歴史を持った星はそれだけ科学も進んでいるでしょうからUFOという
                        未確認飛行物体は、そのような天体から地球へ時たま訪れる姿なのでしょう。

                        テレビでよくUFOの話をしていますが、ああいうものが来ても別に不思議はないのです。
                        しかし分からないからびっくりします。
                        空から円盤のようなものが飛んできたら「ウワァーおそろしい」
                        「お椀が飛んできた」と言いますけど、
                        そういのものの存在はあって当たり前のことです。
                        銀河系の中を見ましても、
                        太陽系そのものの力によって他の太陽系(惑星系)を運行させているのです。
                        これが大宇宙の果てに至るまで全く同じ力をもって動かされており、
                        その作用は相互依存で、お互いに持ちつ持たれつという法則の中に、
                        大宇宙の隅々までもその力をもって示されています。


                                       ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-01-15 00:45:30 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                          ~ 恩師の「心行の解説」より ~


                 先の続き・・・

                 相互依存といいますのはお互いに持ちつ持たれつということですが、
                 人間という字の人は「ノ」と「丶」が持ちつ持たれつを表し、
                 その「間」に生きることを表しています。
                 自然界の太陽系を考えてみますと、太陽を中心として九つの惑星、
                 つまり火星・木星・金星・地球などという星があり、
                 それが一秒の狂いもなく循環しています。
                 遠く離れているから関係はないと思うのですがお互いに作用し合って動いています。

                 昔の時計を分解しますとゼンマイが入っていますね。
                 ねじを巻きますとゼンマイの力によってギヤが回ってきます。
                 また無数の歯車が入っていて、
                 その歯車はゼンマイのばねのエネルギーをもとにして回ります。
                 回ることによって次の歯車を回し、
                 さらに次が回されることによってその次を動かしています。
                 これと全く同じことで、
                 太陽というエネルギーによって各惑星が回されているのですが、
                 これが各惑星ごとに独立して回っているのではなくて、
                 目に見えない歯車、つまり引力の作用によって自分が動き、
                 動くことによって他を動かしています。
                 太陽系はこのように調和されています。


                               ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-01-14 01:14:16 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の「心行の解説」より ~


先の続き・・・

この水もそうですね。
有難いことに蛇口をちょっとひねりますと、ジャーと水を出していただけます。
しかしこの水が無かったら生物の生存は絶対に許されないのです。
人間の肉体は七十数パーセントが水分でできていると聞いています。
遠心分離機にかけますと七割は水になって出ていってしまいます。
人間のこの肉体そのものも自然界の中の一物質としてこの世に生存を許されています。
水そのものも七十パーセントはH2Oの原子に帰ります。
もちろん脂肪とか蛋白質とかいろいろの他の物質もありますが、これらも全部原子に帰ります。
人間は死ぬと燃やして灰にしてしまって何も無くなってしまったなあと思うのですけれども、
焼場で燃やしてもらうと熱の作用によって七十パーセントの水は全部炎をと煙といっしょになって
蒸発するのですね。
自然の中に帰るのです。

土の中に埋めますと時間はかかりますが、やはり水となって土に帰っていきます。
しかし物質そのものは変わることなく、水は水として現実に残っているのですね。
私の住んでいる近くに火葬場がございます。
一昔前まで、低気圧の時などはむくむくと煙が出て地を這って流れますから、
皆「気持ち悪いな、いやだなあ」とおっしゃいます。
しかし人間が自然界へ帰った時はあの煙といっしょに空気中に水蒸気となって上がっていき、
それが万遍なく広がりますと、私たちはその空気を呼吸しますし、
またその水分が雨となって大地におりてきますと、
その水を戴いて生きてもいきます。
いってみれば人間の共食いをやっているわけです。
そんなことはないといいましてもこれは事実です。
燃やせば必ず空気中に帰りますし、それが水として大地に帰ってくるというように、
循環の法に従っています。


              ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-01-13 01:41:30 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                           ~ 恩師の「心行の解説」より ~


                  「神仏の大慈悲に感謝し万象相互の調和の心が神意なることを悟るべし」


             私たちは日々の生活でこの神仏の大慈悲に感謝することを忘れてはいけません。
             私たちは神仏のお陰で生きさせていただいております。
             神仏といいましても肉体を持たれて、そこらを歩いておられるような神様とは違うのですね。
             神様とは、大宇宙の隅々までもその愛をもって支配し、
             小さくいえばこの地上界の万象万物を育てはぐくむ大自然の力です。
             この力こそほんとうの神であり、また法の体の仏です。法そのものが仏の体なのです。
             神という言葉はすべてを生かしすべてをはぐくむことを表し、神ご自身がその大宇宙の中に、
             また自然の中にご自分の姿を示されております。
             それはお互いに持ちつ持たれつという姿です。
             万象相互の調和の心です。

             「私は自分の家の神さんにだけ感謝します」という言う人がありますが、
             こういう神様はほんとうの神様ではありません。
             真の神様とは宇宙の隅々までもその愛をもって支配なさる計り知ることのできない巨大なエネルギーであって、
             この神様であれば素直に受け入れることができますね。
             私たちが毎日の生活でこうして生きさせていただくには、動物、植物、鉱物を戴いてます。
             そして感謝したこともなく、その有難さを味わったこともない空気というものを私たちに与えていただいております。
             しかもその空気の中には私たちが生きさせていただくのにちょうど都合の良い量の酸素を入れていただいているのですね。
             もし酸素が無かったら、私たちは三分か四分のうちに全部窒息します。

             それにもかかわらず空気に対して私たちは感謝することさえ知りませんでした。
             またあのお日様に対しても感謝を知りませんでした。もし光が無かったら大変ですし、
             熱が無かったら地球はたちまちにして凍ってしまいます。
             この熱と光をカロリーに計算しますと、一秒間に石炭二百万トンも燃焼させるだけのものになり、
             それをこの地球だけが戴いているそうです。
             一秒間で二百万トンもの石炭は十秒間では二千万トンですから、一日経ちましたらもう計算することもできません。
             これをお金に換算しまして、もし請求書が来ましたらこれはもう大変なことです。
             地球の全財産を持っていっても足りません。
             これほど巨大な熱、光を戴いており、しかも一銭の請求もなさいませんから私たちはあって当たり前と思っています。
             日々の生活でもそうですね。両親にいていただき、夫婦がお互いに生きさせていただき、子供さんにいていただいて、
             しかもそれで当たり前と思っています。

             当たり前と思う中から感謝を忘れていきます。
             もしいなければどれほど淋しいか、どれほど不自由であるか、そのことが分からないのです。
             ですから、神様への感謝ということが、法の生活をする上では一番大切な基本です。
             見るもの触れるものすべてに感謝の心を持たせてもらうことです。
             「神仏の大慈悲に感謝し」と書いていただいておりますが、自然界に現れたすべてのものが神様の現れです。
             すべてのものに感謝することが神様への感謝につながります。



                                ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-01-12 03:27:28 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                    ~ 恩師の「心行の解説」より ~


              先の続き・・・

              キリスト教にしましても、
              イエス様がご存命中法をお説きになりました時と今とでは、
              たいへんかけ離れたものになっています。
              イエス様は着のみ着のままです。
              私は今日は良い服を着せていただいていますが、
              イエス様はこんないい恰好はなさいませんでした。
              皆さんと同じ服を着て日々の生活のままの姿をもって法をお説きになりました。
              ローマ法王が頭にかぶられる王冠は七、八千万円もするものだと聞いています。
              ビロードのガウンを着て金の錫杖をついておられます。
              イエス様がいつそんな姿をなさいましたか。

              イエス様は「私の肉を食べなさい。私の血を飲みなさい」とおっしゃったはずです、
              肉を食べるといいてもイエス様を殺して食べたら大変です。
              あれはイエス様の御教えを素直に私たちの肉体の中に、心の中に入れなさい、
              そしてイエス様のごとくイエス様と一体となって生きなさい、
              一人一人がイエス様になることを望んでこのように言われたのですね。
              お師匠様が、贅沢三昧のものを身にまとっていること自体が、
              イエス様とは遠く離れています。
              原点と現在とではまったく違っていることを高橋信次先生はお説き下さいました。
              正しい法を学ぶということは、この世で何をし、何をなさないか、
              また何を語って何を語ってはならないかを学ぶことです。
              そしていよいよあの世に帰る時は迷うことなく私たちのふるさとである
              極楽に帰らねばなりません。 


                        ~ 感謝・合掌 ~






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「心行の解説」より。

2014-01-11 01:58:35 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                                  ~ 恩師の「心行の解説」より ~


                  いろいろな儀式の中に一つの例をとりましても、現在の日本の仏教ではお灯明をつけ、
                  線香を立てるのが普通の仕来りになっていますが、しかしお釈迦様の当時はそんなことはしませんでした。
                  ローソクはなぜつけるようになったのか。
                  お釈迦様は八正道の中で常に正しく仕事をしなさいと正業に就くことを説かれました。
                  その正しい仕事は主として昼間行われなくてはいけません。
                  その頃は電気もありませんから、夜は真っ暗です。当初、お釈迦様の説法は夜のほうが多かったのですね。
                  夜、真っ暗の場所で説法を聞かせていただいてもお顔が見えないので、
                  「何とかお釈迦様のお姿を拝みたい」という人々の願いからお釈迦様の前でかがり火を焚いたのですね。
                  今でいえば照明と同じことです。
                  それがいつの間にかお灯明になりました。

                  では線香はなぜ立てるようになったのか。
                  インドの地は暑いところでございますから、
                  いろいろの毒虫がおります。人の血を吸う虫、或いは毒蛇などもおりますから、
                  そのままでは噛まれて仕事にならないので、薬草の汁を絞って、
                  それを体に塗り付け虫よけにしたのです。
                  今でいう殺虫剤の代わりで、虫が寄り付かないためのものです。
                  ところがこれがものすごく臭いのです。
                  これを体に塗って仕事をしますと汗と薬草の臭いでもう臭くてたまらなかったようです。
                  お説教の場へ人々が集まりますと我慢でなきほどの臭気ですから、
                  頭の良いプルナニャニプトラという方が栴檀の木をくすべたところたいへん良い匂いがして
                  悪臭が消されましたので、それで皆さんが集合の時には必ず栴檀の木を持ってきて各自がくすべたのです。
                  それがいつの日にか線香やお香へと変わりました。

                  では、花を供えるのはどういうことなのでしょうか。
                  お釈迦様の御教えの中に「福徳を求める人々は、時々如来に花を捧げよ」というのがあるのです。
                  幸せを求めて、人々はお釈迦様に花を捧げたのです。
                  その捧げられた花をお釈迦様の前にずっと飾られたのですね。
                  私も小さい献花を戴いてここに置かせていただいております。
                  しかしこの花は私のほうを向いておりません。
                  私から見ますと花の背中が見えて綺麗さがよくわかりません。
                  お釈迦様もその通りでございまして、
                  お釈迦様は偉大でございますから身の周りいっぱいを花で飾られておりましたが、
                  お釈迦様から見られたらみな花の後ろばかりで、皆さんのほうに向けて花を飾ったのですね。
                  これが供花の始まりです。
                  お釈迦様ご存命当時のその仕来たりと今の仏教の仕来たりではとんでもない間違いになっています。
                  ほんとうに仏様にお花を供えるのであれば、自分たちが背中を見て、仏様に花を見てもらうのが礼儀ですが、
                  しかしこれは仕来りとなって行っているだけです。


                                   ~ 感謝・合掌 ~






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「心行の解説」より。

2014-01-10 02:19:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                           ~ 恩師の「心行の解説」より ~


                世の中には数々の宗教があります。
                その宗教によりましては先祖供養、或いは浄霊、徐霊などの特色を持って法・道を説いておりますが、
                ほんとうの正しい教えはお釈迦様のお説き下さいました正法であり、イエス様がお説き下さいました愛の正しい教えです。
                高橋信次先生は、釈迦・イエスの教えの原点に還れとおっしゃいました。
                現在の仏教もキリスト教もお釈迦様、イエス様のお説き下さった教えとは遠く離れております。
                お釈迦様は亡くなった方のために拝んで祀りなさい、そして物を供えなさい、
                ロ―ソクを立てなさいとはおっしゃっておれれません。
                このようなことがなぜ日本の仏教の中に習慣になってしまったかについて少しお話させていただきます。
                仏教はインドの地において二千五百有余年の昔、ゴーダマ・シッダールダ(お釈迦様)がお説き下さった教えです。
                もともとゴーダマという王子様だったのです。
                釈迦族というのは、アメリカのインディアンにコマンチ族とかアパッチ族とかがありますように、
                インドのシャキャ族という一つの部族で、その王子様だったのですね。

                このお釈迦様が、人はなぜ苦しむのかと疑問を持たれたのです。
                生後間もなくお母様が亡くなられて、お母様の妹さんが継母となって育てられました。
                お釈迦様は、人間として生を享けたすべての者がなぜ悲しまなければならないのか、
                なぜ苦しまなければならないのか、なぜ病気をしなければならないのか、なぜ死んでいくのであろうか、
                そういう生死の問題について深く疑問を持たれたのです。
                そしてその苦しみから何とかして救われる方法はないものかと、徹底的に追求していかれました。
                高橋信次先生の「人間釈迦」を読んでいただきますとその中に詳しく書かれてありますが、
                やがてお釈迦様は自らに目覚められて教えを説かれました。
                その教えがインドからチベット、そしてあのシルクロードを通って中国の地へと伝わってきました。
                その伝わる道中でその土地の信仰と仏教とがミックスさらながら伝わってきたのです。
                中国には道教と儒教という教えがあり、それと混ざり合ったものが朝鮮半島に伝わり、
                またさらにその国の思想とか土地にある宗教などと混ざり合いながら今度は日本に伝わってきました。
                この時すでにお釈迦様のお説き下さいました御教えとはかなり遠く離れたものになっているのですね。


                                  ~ 感謝・合掌 ~




恩師「長尾弘」先生の関連ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/tenzenhana 「神の御心」
http://blog.goo.ne.jp/hanatenzen 「長尾弘先生垂訓」
http://blog.goo.ne.jp/minraianko 「光の天使」
http://blog.goo.ne.jp/kaminoiyashi 「神癒の奇蹟」


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「心行の解説」より。

2014-01-09 03:08:23 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                         ~ 恩師の「心行の解説」より ~


                 先の続き・・・

                 この世の中で、たとえ宇宙の果てまで行こうとも、
                 どこへ行こうとも自分以上にいとしい者はないのです。
                 自分たち夫婦の仲が悪いために、主人のいない所でお父さんの悪口を子供に言って、
                 お父さんへの尊敬をお母さんが奪っていますと、
                 やがてこういう子供は十代の中頃を過ぎましたらその復習をお母さんに向けてきます。
                 これが家庭内暴力の正体です。
                 お母さんの頭の毛を持って引きずり回し、或いはバットで殴ったり、
                 遂にはお父さんまで殺してしまいます。
                 あれは全部母親の罪です。
                 子供の心を自分のほうに向けたいためにお父さんの悪口を子供に教えるからです。
                 その一番いい例が私でございます。
                 「あんたら大きくなって、お母ちゃんのようになったら駄目だよ、
                 お父さんの言うことをひとつも聞いてくれない、
                 あんなお嫁さんになったら結婚する相手の人が可哀そうだから」と言って、
                 私は一生懸命教えました。

                 家内もまた教えます。「あんなお父さんみたいな人と一緒になったら駄目よ。
                 余所の事ばかりして家を放ったらかしているから」。
                 親のこういうやり方は、子供に悪くなれ悪くなれと教えているようなものです。
                 私はずっと幼い頃まで遡って反省をさせていただきましたが、
                 三歳まではお父さんお母さんは神様だと思っております。
                 皆さんもそうです。三歳まで反省してみて下さい。
                 おしめを替えていただき、おっぱいを戴き、抱っこをしていただき、
                 両親は神様以上の存在だと思っています。

                 そのお父さんお母さん、
                 つまり男神と女神がお互いに子供に向かって値打ちの落とし合いをしているのです。
                 私の両親の場合は仲が良かったので幸せでしたが、私の子供は気の毒です。
                 私はほんとうに両親を神様以上に、天皇陛下さん以上に思っておりました。
                 昔は天皇陛下といいますと、もう生き神様、現人神でして、
                 その天皇陛下よりもお父さんお母さんのほうがなお尊いお方だと思っておりました。
                 これは事実です。
                 両親の縁があってこそ自分があり、もし両親に縁が戴けなかったら、
                 私自身の存在は絶対にないはずですから、誰よりも尊いのが両親ですね。
                 その両親がお互いにけなし合い、
                 神様の値打ちを落とし合っていたら子供を駄目にしてしまいます。
                 子供を素直な神の心で大きくするのも、駄目にするのも親の教育の中にあり、
                 それは親の責任です。


                               ~ 感謝・合掌 ~





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「心行の解説」より。

2014-01-08 05:50:40 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                       ~ 恩師の「心行の解説」より ~


               先の続き・・・

               私たちが天上の世界におりますと、
               自分の魂の光の量をさらに上げることができないために、
               この厳しい現象界で肉体の中に入って魂の修行をします。
               現象界というのは天上界から見ますとものすごく危険極まりない場所で、
               いつ転がり落ちるか分からないような断崖絶壁を旅している世界ですね。
               一歩踏みはずすとたちまち奈落の底に落ちます。
               仲良く幸せに暮らしていた家庭で、奥さんが亡くなられたあと、
               息子さん夫婦にもめ事が起きてお嫁さんが子供を残して家を出てしまい、
               私たちが知り合った当時の幸せな調和された家庭が二年もしないうちに完全に破壊したのを知っていますが、
               このような崖っぷちを私たちは旅をしているということです。
               一つ何かの縁にふれましたら、突然奈落の底へ落ちているという方がいっぱいありますね。
               会社の前を通りますと、破産のため会社は潰れ、家族は分散していました。
               これも危険なこの世の旅で一歩足を踏みはずした姿です。
               自然界の海原の航海にも譬えられます。
               海原はある時は波一つなく静かに凪いでいますし、
               また暴風に荒れ狂う時もあります。

               海面は凪いでいても霧に閉じ込められた航海不可能な状態もあり、
               凪いでいるから「やれ嬉しや」と航海していると暗礁が出ていて船底を突き破ってしまうこともあります。
               それと全く同じです。
               私たちの人生も油断していたら港の入口で船の底を割ってという例になりますね。
               私たちは肉体という船に乗りまして人生の海原を旅しているわけですから、よほどうまく
               羅針盤を動かさないといけません。
               この羅針盤は、何事をするにも自分の心で一度判断してみることです。
               あちらへ行ったほうがいいか、こちらへ行ったほうがいいか、と考えてみます。
               この時、両親が嘆くほうに行けば必ずひどい目に遭います。
               喜んでくれるほうを選んでいけば必ずうまくいきます。
               なぜうまくいくかと言いますと、私たちの両親こそ、神が私たちに与え給うたお方だからです。
               「その父と母との導きに従うことは父なる神の導きに従うことであることを知りなさい。
               父母を敬い父母の導きに従うものは、神なる私を敬い、神なる私の導きに従うことである
               ことを知りなさい」と、このように神は言われます。
               両親が喜んで下さる道は、神が喜んで下さる道ですから、狂いはないのです。
               両親の悲しまれる道を進んだら神が悲しまれるから、失敗の道を辿ります。
               私の人生の羅針盤は二十歳の時に戴きました。
               そして少しでも安心していただくように、親には心配をかけたくないと思っていますのにこれも試練で、
               心配をかけなければならないようなことも起きますね。
               それは必ずひどい目に遭います。
               心配をかけただけまた自分が苦しみを味わいます。
               仮にもうお亡くなりになっていても、親に安心していただくようにすれば両親はあの世で
               喜んで下さいます。
               私たちは神のご意志に背いて、絶対に幸せになることはできません。
               神様と全く同じ生命を戴いている私たちが、その意味さえ分からなくなって自ら苦しんでいると、
               その痛みはそのままこちら側の神様に通じるはずですから、
               自分を苦しめてはなりません。


                               ~ 感謝・合掌 ~




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「心行の解説」より。

2014-01-07 04:31:35 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                        ~ 恩師の「心行の解説」より ~


                  先の続き・・・

                  身近な親しい人が正しくないことをされる場合も同じことです。
                  腹が立ったり嫌いな思いをしたり、ひどい時にはカッカときて、
                  他人の愚かな行為のために自分が心の楽しみを失います。
                  自分は間違っていないのに、
                  人が間違ったからといって自分自身の心を苦しめる方が多いのですが、
                  この時、私たちは次のように思うことです。

                  「人の愚かなる行為をもって、我が心の楽しみを失うことなかれ」と、
                  人が愚かなことをした場合、大半の人はそのことで自分の心を苦しめます。
                  例えば電車に乗っていてすごくマナーの悪い人に対して「ほんとに、
                  ようあんなことができるものだ」と怒っています。怒るのは自分ですね。
                  マナーの悪い人は他の人なのに、それを見て怒って自分の心が苦しんでいます。
                  人の愚かなる行為をもって我が心の楽しみを失う者は、なお愚かなリ」。
                  他の愚かな行為で、夫婦の間でも友達の間でも心を苦しめることは多いのです。
                  「ほんまにうちの嫁さん、もう何をやってるのや―」と、
                  自分がしてないのに自分の奥さんのことで怒っていますと、
                  嫁さんより婿さんのほうが愚かになります。
                  逆の場合も同じことですね。「うちのお父さん、しょうがないなあ」
                  と言って主人に腹を立てていますと奥さんのほうが愚かです。

                  自分が愚かなことをしたら、これは悔い改めなければいけませんが、
                  人が愚かなことをして、それで自分が怒っていたら、
                  その愚かな人よりも自分のほうがなおアホということです。
                  人のことで自分が腹を立てないこと、ましてや相手が間違っている場合に腹を立てたら、
                  丸損でございます。これを専門のようにして、
                  人の悪いことばかりを言ったり書いたりして怒っている人がありますね。
                  あれは丸損です。
                  自分の心の休まる暇がありません。
                  他人の悪いところばかり目につく人は、常に心がいら立って、腹を立てていますから、
                  心の中に安らぎのあるはずがありません。
                  こんな人は死んだら必ず硬くなります。
                  これは絶対に間違いありませんから、
                  そういう人を一度見ておくといいですね。


                                    ~ 感謝・合掌 ~




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「心行の解説」より。

2014-01-06 01:10:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                         ~ 恩師の「心行の解説」より ~


               先の続き・・・

               この肉体とは、いってみれば泥沼みたいなものです。
               しかし蓮の花は泥沼がなければ絶対に咲きません。
               蓮の花はあの泥沼のきたないものを吸収して、それを栄養として、
               その泥に汚されない美しい花を咲かせています。
               蓮の花でも葉でも、泥水をかけても決して汚れることはなく、
               水をみなはじいてしまいます。
               悪や汚れを寄せ付けない蓮の花はいったいどこから育ってきたのかというと、
               泥の中からです。
               それと全く同じことで、六根がなかったら魂の進化、悟りはありません。
               私たち人間は、肉体の五官をもって、五官を栄養として、
               汚れを寄せ付けない心の蓮の花を咲かせることが、この世に生まれた目的でした。
               今この社会を見ましても、リクルート事件を取り上げて悪口を言っていた政治家が、
               内緒で金を貰っていたとかテレビで報じています。

               「私たちがいくら魂の修行をさせてもらい、正しく生きても、
               世間の奴は悪いことばかりしているから何にもならない。
               ましてや政治家が悪いことしている世では修行する意味がありません」などと言う人がありますが、
               しかし、悪いことをし、間違いを犯す方々は私たち「法」を学ぶ者から見ますと、
               これは泥沼と同じです。
               その人たちの姿を私たちの栄養として「あのような事はしないように、
               ああいう間違いは犯さないようにしよう。
               せめて自分だけでも間違いのないように生きよう」と思って、そこから学び取っていくことですね。
               そして社会の悪に汚れない己自身の法の花を咲かせたらいいのです。
               過ちも人の悪も私たちが裁く必要はありません。これは私たちと神様の問題です。
               過ちを犯している人は、過ちを犯している人と神様との問題です。
               私たちはそれを学びとして、せめて自分は過ちを犯さないようにしようと、
               自分の栄養にしていけばいいのです。
               ですから社会の悪もすべて私たちの学びの材料として受け取らせてもらった時には、
               腹も立ちませんし、人を悪く思うこともありません。
               ましてや恨み憎しみは関係のないことです。
               その方と神様の関係だと思わせてもらえばいいのですね。


                              ~ 感謝・合掌 ~




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「心行の解説」より。

2014-01-05 01:58:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                  ~ 恩師の「心行の解説」より ~


          先の続き・・・

          お釈迦様はこの肉体を
          「不浄なるものを詰め込んだ皮袋のようなものである」とおっしゃいました。
          人体を何か尊い清らかなもののように錯覚を起こしていますがよく考えてみますと
          この肉体からは「くそ」ばっかり出て来ます。
          歯くそ、鼻くそ、耳くそ、目くそ、もうくそだらけでございます。
          しかしこの汚い物が出て来る袋があってこそ、私たちは悟らせてもらうことができるのです。
          汚れ多き五官が無かったら悟ることはできません。
          お釈迦様がおっしゃっているように不浄なものを詰め込んだこの皮袋あってこそ
          菩提と化すことができます。
          蓮の花は汚い泥がないと咲かないのと同じことです。

          天上界にいたら悟れません。
          なぜかというと、自分と全く同じ光の量の区域におりますから、
          十ワットの者は十ワットの者ばかり、百ワットの者は百ワットの者ばかりで
          外の人はいませんから、他の方を見て学ぶことができないのです。
          このくそ袋に魂が入りますと、偉大な光の大天使も、地獄からちょっと上へあがった程度の方も
          全部同じ肉体の中に入りますから見たところ皆人間ですが、
          魂の次元の高い良き方は、やはり過ち少なく善き行いをなさいます。
          その方その方の霊格、霊の高さ、魂の段階の高さを知る方法は、
          その方がどれだけ善き行いをなさっているか、
          どれだけ過ち少ない生活をなさっているかによって判断できます。
          一時、目を細くして相手を見たら光が出て来て、光が大きいか小さいかを見ることを
          習ったことがありましたが、そんなことをしなくても、
          善いことはようしないで悪いことばっかりしている過ちの多い人はもう霊格が低いと
          判断して間違いありません。
          魂の次元の問題です。
          高い人は人のために仏の業をなされているはずです。
          言われることに嘘やまどわしの言葉はいっさい使われません。
          ですからその方の行い、言葉を見て霊格の判断することができます。


                        ~ 感謝・合掌 ~




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「心行の解説」より。

2014-01-04 02:24:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                 ~ 恩師の「心行の解説」より ~


          先の続き・・・

          道教の教えに「友の憂いに我は泣き、吾が喜びに友が舞う」
          というのがありますが、友の憂いに我が泣いてはいけません。
          一緒に不幸になります。
          喜びは、我が喜びも友の喜びも共に踊って喜べばいいのですが、
          憂いを共にして泣くというのはいけません。
          泣くよりも励まし勇気づけて、友の憂いを除く助けをするのが、良き友のお付き合いですね。
          このように心の在り方によって人は不孝にも幸せにもなります。
          菩提とは、内在された偉大な神の意識と表面の意識とが遮られていることを知ることであり、
          一つの悟りです。

          このことが把握できますと人間すべてが兄弟であることが理解できます。
          ここにコップが沢山ありますが、どのコップの中にもみな同じ空気が入っているはずです。
          このように人間は全部同根、コップが何十万個ありましても、全部同じ空気が入っているように、
          私たち一人一人の中に父なる神のご意思がそのまま入って下さっています。
          私たちは全部同質同根です。

          これを知った時、「自分を愛するがごとく他を愛さなければいけない」
          というイエス様の言葉が理解できます。
          お互いに愛し合いなさいというのは、それは内在の世界において、
          皆自分がこの方であり、この方が自分であるからです。
          菩提とは菩提と化すこと、つまり内なる意識に通じることです。
          これは六根あるがためにこの心境を掴むことができます。
          というのは、
          こちら側があるからそちらに達することができるのです。
          カーテンがあり壁があって、壁の外側は私たちの表面意識、
          内側は内在された神の意識が通じているということを知ればいいのです。
          つまり悟ることですね。
          六根あるがゆえに菩提と化すことができます。


                    ~ 感謝・合掌 ~


※ 関連ブログ

  神の御心    http://blogs.yahoo.co.jp/tenzenhana
  光の天使    http://blog.goo.ne.jp/minraianko
  神癒の奇蹟   http://blog.goo.ne.jp/kaminoiyashi



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「心行の解説」より。

2014-01-03 02:38:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                   ~ 恩師の「心行の解説」より ~


           先の続き・・・

           自由自在に良い面も悪い面も見分けて、良いほうへ心を変えるのが「観自在菩薩」で、
           良い面に素早く切り変えのできる方は観自在です。
           仏を目指して修行する方をボサターといいます。
           私たちは、アボロキティーシュバラーといって過去、現在、未来の三世を見通す能力を
           持つような偉大な者にはなれませんが、観自在菩薩でしたら、誰にでもなれます。
           私たちは確かに三世を見通す能力があれば素晴らしいなあと思いますが、こんな能力がつきますと、
           魂の修行ができないのです。
           みな分かってしまうから生まれる必要はなくなってきます。
           前もってすべての筋道が分かっていて、こちらへ行ったら駄目、
           こう行ってこのようにすればよいというのでしたら、何も生まれてくる必要はありません。
           ですからいくら失敗しても「ああ私は駄目人間だ」と思わなくてもいいのです。
           二度と繰り返さないという修行法でしたら私たちは自信を持って修行できます。

           失敗しても当たり前、それを学びとして次に繰り返さなければいいのですね。
           「私はもう再び人の悪口を言いません」と言いながら、言うはしから次々と悪口を言っている人があります。
           これでは何にもなりません。間違いと気付けば「過ちを悔い改めるのに憚ることなかれ」で、
           遠慮せず勇気をもって改めたらいいのです。
           イエス様がおっしゃるように「悔い改めよ、汝の罪は許されん」です。
           悔い改めたらもう罪は許されます。しかし改め放しではいけません。
           今度は良き償いをすることですね。例えば、よその人をひどい目に会わせて、
           殴って泣かせます。今度悔い改めましたと言って相手に謝らないでいると「こら」と殴られます。
           相手からド突いてもらうのが償いです。

           ド突いてもらって「はい、有難うございました」と言って受けるのが償いの行為です。
           どんなことでも「ああ悪い事をした、私は悪い人間だ、悪い、悪い」と言っておればだんだん悪い人間になって良くなりません。
           反省して自分が嫌になってだんだん落ち込み、反省すればするほど自分が嫌いになるとよくおっしゃいますが、
           それはその後の実践をしていないから苦しいのです。
           ただ、自分は悪いというのは正しい反省ではありません。
           反省をして償いのために善き行いをしますと、「ああ人として生まれて良かった」という
           喜びが必ず与えられます。
           反省をして自分の過ちに目覚め、次に償いのために善き行いをした時に、人様が喜んで下さいます。
           「ああ良かった、私は人と生まれて過ちを犯し、そこで悔い改めることができて
           償いをさせてもらえて良かったなあ」という喜びが戴けるはずですね。
           頭で反省するだけで実践がありませんと、だんだん落ち込んでいきます。


                           ~ 感謝・合掌 ~




※ 関連ブログ http://blog.goo.ne.jp/kaminoiyashi


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「心行の解説」より。

2014-01-02 02:29:36 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

                       ~ 恩師の「心行の解説」より ~


               先の続き・・・

               日常の具体例で、怒りの壊滅の方法をいいますと、
               これは思い方をうまく変える方法しかないのです。
               一番てっとり早い方法は常に大難を小難と思うことです。
               何事が起きても、もっとひどい目に会うことを思えば幸いだと、考えることです。
               ある方が奥さんからいつも怒られて逃げ回っていると、
               また追いかけてきて言われるので「うちの嫁さんにはかないません。
               どうしたらいいですか」と相談に見えたのです。
               「本物の狂人よりましだと思って喜びなさい、文句言われるぐらい結構なことです」
               と言いますと、「そう思いましたら、えらい楽になりました」と言って、
               いつもそう思うことにされたそうです。
               私たちは思い方一つによって不幸になったり、幸せになったりしますね。

               男性は嫁さんにえらい目に会わされてかなわんな、
               えらい嫁さんで苦労するなと思うのですが、
               ほんとうは心の持ち方でああましな嫁さんだと思えるのです。
               奥さんの側に立って見ても同じことです。
               うちの主人はうるさくて嫌だな、どうしょうもなくかなわないと思う主人を、
               「ああ結構だ、この主人がいるから私たちは生活させてもらえる、
               もう嫌なところは目をつぶろう」と思い変えましたらたちまち楽になります。
               嫌な面ばかり見るから嫌になるのです。
               私たちは環境の中に生きていると錯覚を起こしていますが、
               ほんとうは心の中に生きているのであり、
               思い方一つ変えるだけですごく救われる場合がありますね。


                               ~ 感謝・合掌 ~




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