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会議には「自分の意見を変える覚悟」で臨まなければならない

2005年01月30日 | シロート考え
 しごく当たり前のことなのだけれど、およそ会議というものは、参加者が「誰かの意見が良い考えなら、自分の意見を変えてもいい」という覚悟というか用意をしていかなければ、意味がない。
 逆に、国会の議論がいつもすれ違いなのも当然で、どちらも自分(達)の意見を変えようなんて気はさらさらなくて、自分の意見をただ開陳するだけだ。
 特別ひどいのが、小泉と石原で、まったく話にならない。他人の意見を聞くどころか、説得力のあるきちんとした主張をしようと言う気もない。小泉の「自衛隊は非戦闘地域に派遣する。」そして、「非戦闘地域とは自衛隊の派遣されている場所のことだ。」=「白とはおれが白く見える色のことだ」は民主主義の根底を否定する最悪の言葉だと思う。


 我が身に振りかえって、身近な会議で、上司や会長とかに、最初から全てをわかっていて、最初から正しい判断をしている、と言う状態を期待してしまう。「良い独裁者」を期待してしまっているのだ。
 だが、それなら会議など無用だ。
 良い会議参加者とは、他人の意見をきちんと聞くことができ、自分の意見をきちんと論理的に変えることが出来る人なのだ。
 会議に出す原案も同じ。良い原案とは「正しい結論」ではない。原案を作るに当たって、何を決めなければならないのか、様々な周りの状況、判断材料、原案や考えられる対案のメリットデメリット、考えられる周りの状況への影響、それらが会議参加者にわかりやすくまとめてある、それこそがよい原案(会議資料、説明)であるし、参加者はその資料に基づいて議論し、よりよい結論にたどり着くべきなのだ。

 マスコミにも同じ事を言いたい。前に書いたけど、政治三面記事 はいらない。読者がよりよい判断を出来るような「材料」を提供して欲しい。

「くらやみの速さはどれくらい」エリザベス・ムーン

2005年01月28日 | 
2005.01.28
 面白かった。アルジャーノンに似ている、と思う。僕が自閉症児の親であることが問題を複雑にしている。自閉症児(者)がこんなふうに考えない事は明らかだ。いかにもこんな風に考えそうだが。こんな風に考えるようになったらもう、自閉症児ではない。だからこんな話は絶対に成り立たない。
 読み始めて、違和感がぬぐえなかった。「これは絵空事だ」。しばらくして、気づいた、これはジャックロンドン、谷口ジローだ、動物小説のようなものなのだ。どちらも、言葉で考えないし、考えられるようになったら、根本的に違うものになってしまう。でも感じていることを言葉に変えれば(そんなことは不可能なのだが)こんな風なのに違いない。
 「アルジャーノンに花束を」を面白く読んだ人には、面白く読めると思う。実はアルジャーノンも僕は若干の違和感があった。これにもある種、違和感がある。自分が自閉症者の親だからなのかどうか、よくわからない。これを読んで自閉症のことがわかったように思われるのがもっとも困る。小説として楽しんで欲しい。

 結末のこと。
 小説の結末を書いてしまうことは不作法だ。不作法なことをしてはいけない、と教わった。多くの人が、最後にある、解説やあとがきから読むと聞いた。なぜ、あとがきから読むのだろうか。正常(ノーマル)な人のする事は理解できないが、それが普通のことなのだ。
 解説に「意外な結末というわけではない。」とあるが、結末は意外だった。いくつかの想定した結末の中の一つだったが、可能性が低いと考えたものだった。「ハッピーエンドに見える結末」とあるが、ぼくにはハッピーエンドかどうか、よくわからない。
「この結果の複雑さは、ちょっと例を見ない。」とあるが、いや、結果は単純だ。複雑なのは、読者の胸に去来するもののことだ。だから、良い結末、名作だと言えるのだろう。