古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

ウグイスなんかが来てくれないかなー。

2010年02月06日 03時05分39秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 裏山に小鳥の餌場を取り付けました。手前の下生えの上に餌場を置き、プリンの容器に水を入れ、砕いた大豆をまいています。檜の板で作ったのでいい香りがします。竹を伐ったので小鳥がときどき来るのですが、まだ止まってくれません。ヒヨドリでなく、ジョウビタキとかウグイスとかメジロとかが来てくれたらいいな。
 ネットで見ると小鳥の家の作り方が紹介してあります。近日中に作ってみます。
 それにしてもいいたたずまいだなー、と気に入っています。コナラの林の向こうにいろんな苗木を植えたスペースがあり、その先に我が家があり、その先に田舎の景色が広がります。
 考えてみると、去年の今頃は家の横に小屋を作ろうと連日工事に没頭していました。土を運び、セメントを流し込む枠をつくり、小屋を建て、棚をつくり、屋根に塗料を塗っていました。今年は竹を伐って片付け、下生えを伐り、木を植え、小鳥の餌場をつくっています。
 でもふっと考えることがあります。
 こうしてなんとか元気に体をつかって毎日仕事をして(一文にもならないけど)すごしているけれど、ブログで書くのはほとんど『老いの自慢』です。貧しくても悠々自適。気持ちだけはゆとりのセカンドライフ。晴耕雨読・行雲流水・明鏡止水の田舎暮らし。
「人間が生きる」とはそんな生易しいことなのか。人間は命と力をぎりぎりまでつかって、精いっぱい生きる生き物ではないのか。与えられた能力は次第に小さくなっても、終焉の日までなにかの役に立とうとする意志だけは持ちつづける生き物ではないのか。
 犬の細胞と人間の細胞では、ほとんど生きる能力の差はない。しかし犬は20年生きることはない。人間は100年生きる。その差は「生きる意志」にある。その生きる意志とは。おいしいものを食べてまわり、おもしろおかしくすごすことなのか。 また考えます。
コメント
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