母が89歳になった8年前、ぼくは応募しようとこんなエッセイを書きました。いまになって読み返してみて、「いまはもうこんな文を書く心境になれない」、60歳を過ぎてからこんな文を書くほどに「母という存在はぼくにとってグレートマザーだったのか」と思います。
いま小学校四年生になる初孫が二歳のときのことです。長い文ですがお読みいただけたらうれしいです。
母との出会い
二歳になった孫が久しぶりに遊びにきた。わが家にくるといつも遊ぶことにしている人形やおもちゃを出して、妻とわたしは競うように遊び相手になる。
妻が「おじいちゃん、ビデオ撮ってよ。わたしが相手してるから」といい、わたしはわたしで「あのビデオはだれにでも撮れる」と、撮影係を妻に押し付けようとする。
すると「オジイチャンガ、ビデオトッテ」と孫がはっきりしたことばでいったのには驚いた。二ヵ月ほど見ないうちに、びっくりするほどことばが増え、文のかたちで意志を伝えてくる。
この日は朝来て夕方帰ってしまったが、ふだん妻とわたしだけの家に、しばらくは孫の余韻が残った。散らかしたおもちゃを片付けていると、さきほどまで動きまわっていたかわいい仕草が目に浮かぶ。
二歳になったのか。かわいいものだ。
その晩寝床に入ってからも孫の顔が浮かび、思わず顔がほころぶ。表情の乏しくなった年寄りの顔をこんなにほころばせるなんて、二歳の子どもの存在感はたいしたものだ。
ふいに妹のことを思い出した。
妹は、二歳になったばかりの昭和24年4月、栄養失調で死んだ。伸子という名前だった。二歳になっていたのだから、孫と同じように歩いていただろうか。なにかしゃべっていただろうか。
その頃住んでいた山陰の山奥の、分教場の住いを思い浮かべてみた。裏山、谷川、水車。せまい校庭の鉄棒、校門のそばの桜。
小学生になっていた妹、弟や村の子らと遊んだ遠い記憶はある。しかし伸子の姿が浮かばない。伸子はどうしていたのだろう。二歳になっていたのに外に遊びに出なかったのだろうか。昭和24年4月といえば、わたしは小学校六年生。多少の物心はついていたであろうに、歯がゆいほど伸子のことが思い出せない。
もし伸子が生きていたら、今年五十四歳になるはずである。どんな人生を歩むことになったかわからないが、伸子は人に愛される人になっていたにちがいない。聞き分けのいい妹だった。
蜜柑箱に紙を貼った仏壇に白木の位牌を立て、母は毎日ご飯を供えた。下痢が止まらないから食事を制限しなさいという、ふもと町の医者の指示をまじめに守って、子どもを死なせてしまった母にしてみれば、ご飯を供えるのはつらいことだったであろう。
初盆をむかえて、母は小さな赤い下駄を買ってきて仏壇に供えた。なんで仏壇に下駄なんか供えるのか、とたずねる三人の子に、母はこんな話をした。
「夜寝ていたら、伸子が玄関口に歩いてきた。足もとを見ると下駄をはいてない。『伸ちゃん、お入り』と声をかけたら、姿が見えなくなった。あの子は弱っていたから、外に出ることもなくて、下駄を買ってやっていなかった。きっと下駄がなくて、入れなかったのだろう」
さらに母は、この機会におまえたちに聞いてほしい、といった。
「お母ちゃんは、知恵が足りなかった。お医者さんがなんといおうと、伸子にはどんどん食べさせればよかった。いまさらあやまってもどうにもならないが、伸子にもおまえたちにもあやまりたい。
夜、おまえたちの寝顔を見ていると、こんなおろかなお母ちゃんが、三人の子を一人前に育てられるだろうかとこわくなる。この間ひとりで墓参りして伸子の骨つぼを開けてみたら、小さい骨があって、つぼの底に少し水がたまっていた。お母ちゃんはこっそりその水を飲んだ。伸子がお母ちゃんのなかに入ってきたような気がして、これからも生きていかなくては、という気になった」
小学生の子らに母の心がきちんと伝わったとは思えないが、50年以上たっても心に残っている。
母に苦労をかけたことを思い出せばきりがない。長男のわたしが生れたときは早産で、産婆さんがタオルにくるんで目方を計ったら5百匁(もんめ)だったという。2000グラムに満たない赤ん坊だったのだろう。乳を吸う力がなくて、弱々しく泣くばかりだった、あんな子がよく育ったものだ、と祖母に聞いたことがある。
山奥の分教場にわが一家がいた冬、小学四年生だったわたしは、大そりで遊んでいて足をくじいた。雪の中で泣いているわたしを、村の人が背負って分教場まで運んでくれた。
一階の屋根まで雪の積もる山奥の村には、医者も整骨院もなかった。
「たがっただ(捻挫したんだ)。芋ぐすりを貼っときゃ治る」と村の人にいわれた。
だが三日たっても四日たっても立てなかった。心配した母は、父と村の人にたのんでわたしを背負ってもらい、ふもとの町までつれていった。時間をかけて雪の山道をくだり、お祈りと治療をするおばあさんに診てもらったところ、やはり「こりゃ、たがっただ。この貼りぐすりを三日貼ったら治る」といってくすりを渡された。
しかし一週間たっても十日たっても立てなかった。母は、また村の人と父にたのんでわたしを背負ってもらい、ふもとの町におりていった。そこから汽車に二時間乗って大きな町に行き、整骨院で診てもらった。
骨折していた。骨に肉が巻き付いてしまっているが、とにかく治療してみるしかないということでギブスをつけてもらった。
ふたたび二時間汽車に乗って、小さな町に帰ってきた。村に帰る人に連絡をたのんで、父がふもとの町にむかえにおりてきたのは、もう夕方だった。
街灯などない。雪の山道をわたしを背負って、父は雪明りをたよりに一歩一歩のぼった。凍てついた道は滑りやすく、倒れたら谷底まで落ちてしまう。
父がよろめき、わたしはギブスをはめた足を打った。痛くて泣いた。わたしのおしりに手をあてがって後ろからのぼっていた母は、なす術もなくおろおろし、なにか祈りのことばをつぶやいていた。家に辿り着いたのは真夜中で、妹、弟は眠っていた。子どもの頃の忘れ得ぬ体験の一つである。
大人になってから足の骨折の話をしたら、「そんなことあったかなあ。いろいろあって忘れてしまった」と母は笑った。母にすれば忘れてしまうほどの、小さな苦労の一つだったかもしれない。
妹伸子の死んだあとに生れた弟をふくめ、5人の子どもを生んだ母にしてみれば、ひとりひとりの子どもに胸を痛めたこと、どきっとしたこと、おろおろしたことが、数え切れなくあったであろう。そのたびに、全力でぶつかっていくしかなかったであろう。
成長した子どもは、やがて友と出会い、師と出会い、異性と出会い、我が子と出会う。わたしも多くの人と出会い、孫と出会う年齢まで生きてきた。
そんなわたしの出会いをふり返ってみると、やはり母と出会ったことが、心の中にいちばん大きな位置を占める。母の魂とわたしの魂は、出会ってからずっと真剣に切り結んできた。その出会いの長いドラマは、深く心の底に堆積して腐葉土となった。
腐葉土は、どんなものがとび込んでも、心の壁を痛めないように、ふんわり受けとめてくれた。腐葉土に養分をもらって、いろんな種が芽を出し、心にみどりが茂り、わたしは人を愛し、人を信じ、人とつながり、人にやさしくすることができるようになった。
父は俳句をたしなんだ。米寿をまえに入院して百日あまり、だんだん弱って食事が摂れなくなっても俳句だけは詠んだ。
病院の夜は長い。交代で夜通し付き添う子らに、眠れぬ父はよく何時かとたずねた。そして ≪ 長き夜を覚めればそこに母のあり≫ という句を書きとめた数日後、亡くなった。
人は母から生れる。人はみな、どんなかたちであれ、母と出会う。その出会いは華々しいドラマではない。平凡で、地味で、他人が見れば退屈なドラマかもしれない。しかし母の魂と子の魂が深く切り結ぶ、世界にひとつしかない真剣なドラマだ。このドラマを演じて、人は人のこころをもつにいたる。
米寿をすぎて母は生きている。わたしの出会いのドラマは、これからどうなるにせよ、いずれ幕はおりる。その日まで母は真剣にドラマを演じるだろう。
わたしも真剣に演じるしかない。そうすることが人の人たる所以(ゆえん)であると思うから。 おわり
いま小学校四年生になる初孫が二歳のときのことです。長い文ですがお読みいただけたらうれしいです。
母との出会い
二歳になった孫が久しぶりに遊びにきた。わが家にくるといつも遊ぶことにしている人形やおもちゃを出して、妻とわたしは競うように遊び相手になる。
妻が「おじいちゃん、ビデオ撮ってよ。わたしが相手してるから」といい、わたしはわたしで「あのビデオはだれにでも撮れる」と、撮影係を妻に押し付けようとする。
すると「オジイチャンガ、ビデオトッテ」と孫がはっきりしたことばでいったのには驚いた。二ヵ月ほど見ないうちに、びっくりするほどことばが増え、文のかたちで意志を伝えてくる。
この日は朝来て夕方帰ってしまったが、ふだん妻とわたしだけの家に、しばらくは孫の余韻が残った。散らかしたおもちゃを片付けていると、さきほどまで動きまわっていたかわいい仕草が目に浮かぶ。
二歳になったのか。かわいいものだ。
その晩寝床に入ってからも孫の顔が浮かび、思わず顔がほころぶ。表情の乏しくなった年寄りの顔をこんなにほころばせるなんて、二歳の子どもの存在感はたいしたものだ。
ふいに妹のことを思い出した。
妹は、二歳になったばかりの昭和24年4月、栄養失調で死んだ。伸子という名前だった。二歳になっていたのだから、孫と同じように歩いていただろうか。なにかしゃべっていただろうか。
その頃住んでいた山陰の山奥の、分教場の住いを思い浮かべてみた。裏山、谷川、水車。せまい校庭の鉄棒、校門のそばの桜。
小学生になっていた妹、弟や村の子らと遊んだ遠い記憶はある。しかし伸子の姿が浮かばない。伸子はどうしていたのだろう。二歳になっていたのに外に遊びに出なかったのだろうか。昭和24年4月といえば、わたしは小学校六年生。多少の物心はついていたであろうに、歯がゆいほど伸子のことが思い出せない。
もし伸子が生きていたら、今年五十四歳になるはずである。どんな人生を歩むことになったかわからないが、伸子は人に愛される人になっていたにちがいない。聞き分けのいい妹だった。
蜜柑箱に紙を貼った仏壇に白木の位牌を立て、母は毎日ご飯を供えた。下痢が止まらないから食事を制限しなさいという、ふもと町の医者の指示をまじめに守って、子どもを死なせてしまった母にしてみれば、ご飯を供えるのはつらいことだったであろう。
初盆をむかえて、母は小さな赤い下駄を買ってきて仏壇に供えた。なんで仏壇に下駄なんか供えるのか、とたずねる三人の子に、母はこんな話をした。
「夜寝ていたら、伸子が玄関口に歩いてきた。足もとを見ると下駄をはいてない。『伸ちゃん、お入り』と声をかけたら、姿が見えなくなった。あの子は弱っていたから、外に出ることもなくて、下駄を買ってやっていなかった。きっと下駄がなくて、入れなかったのだろう」
さらに母は、この機会におまえたちに聞いてほしい、といった。
「お母ちゃんは、知恵が足りなかった。お医者さんがなんといおうと、伸子にはどんどん食べさせればよかった。いまさらあやまってもどうにもならないが、伸子にもおまえたちにもあやまりたい。
夜、おまえたちの寝顔を見ていると、こんなおろかなお母ちゃんが、三人の子を一人前に育てられるだろうかとこわくなる。この間ひとりで墓参りして伸子の骨つぼを開けてみたら、小さい骨があって、つぼの底に少し水がたまっていた。お母ちゃんはこっそりその水を飲んだ。伸子がお母ちゃんのなかに入ってきたような気がして、これからも生きていかなくては、という気になった」
小学生の子らに母の心がきちんと伝わったとは思えないが、50年以上たっても心に残っている。
母に苦労をかけたことを思い出せばきりがない。長男のわたしが生れたときは早産で、産婆さんがタオルにくるんで目方を計ったら5百匁(もんめ)だったという。2000グラムに満たない赤ん坊だったのだろう。乳を吸う力がなくて、弱々しく泣くばかりだった、あんな子がよく育ったものだ、と祖母に聞いたことがある。
山奥の分教場にわが一家がいた冬、小学四年生だったわたしは、大そりで遊んでいて足をくじいた。雪の中で泣いているわたしを、村の人が背負って分教場まで運んでくれた。
一階の屋根まで雪の積もる山奥の村には、医者も整骨院もなかった。
「たがっただ(捻挫したんだ)。芋ぐすりを貼っときゃ治る」と村の人にいわれた。
だが三日たっても四日たっても立てなかった。心配した母は、父と村の人にたのんでわたしを背負ってもらい、ふもとの町までつれていった。時間をかけて雪の山道をくだり、お祈りと治療をするおばあさんに診てもらったところ、やはり「こりゃ、たがっただ。この貼りぐすりを三日貼ったら治る」といってくすりを渡された。
しかし一週間たっても十日たっても立てなかった。母は、また村の人と父にたのんでわたしを背負ってもらい、ふもとの町におりていった。そこから汽車に二時間乗って大きな町に行き、整骨院で診てもらった。
骨折していた。骨に肉が巻き付いてしまっているが、とにかく治療してみるしかないということでギブスをつけてもらった。
ふたたび二時間汽車に乗って、小さな町に帰ってきた。村に帰る人に連絡をたのんで、父がふもとの町にむかえにおりてきたのは、もう夕方だった。
街灯などない。雪の山道をわたしを背負って、父は雪明りをたよりに一歩一歩のぼった。凍てついた道は滑りやすく、倒れたら谷底まで落ちてしまう。
父がよろめき、わたしはギブスをはめた足を打った。痛くて泣いた。わたしのおしりに手をあてがって後ろからのぼっていた母は、なす術もなくおろおろし、なにか祈りのことばをつぶやいていた。家に辿り着いたのは真夜中で、妹、弟は眠っていた。子どもの頃の忘れ得ぬ体験の一つである。
大人になってから足の骨折の話をしたら、「そんなことあったかなあ。いろいろあって忘れてしまった」と母は笑った。母にすれば忘れてしまうほどの、小さな苦労の一つだったかもしれない。
妹伸子の死んだあとに生れた弟をふくめ、5人の子どもを生んだ母にしてみれば、ひとりひとりの子どもに胸を痛めたこと、どきっとしたこと、おろおろしたことが、数え切れなくあったであろう。そのたびに、全力でぶつかっていくしかなかったであろう。
成長した子どもは、やがて友と出会い、師と出会い、異性と出会い、我が子と出会う。わたしも多くの人と出会い、孫と出会う年齢まで生きてきた。
そんなわたしの出会いをふり返ってみると、やはり母と出会ったことが、心の中にいちばん大きな位置を占める。母の魂とわたしの魂は、出会ってからずっと真剣に切り結んできた。その出会いの長いドラマは、深く心の底に堆積して腐葉土となった。
腐葉土は、どんなものがとび込んでも、心の壁を痛めないように、ふんわり受けとめてくれた。腐葉土に養分をもらって、いろんな種が芽を出し、心にみどりが茂り、わたしは人を愛し、人を信じ、人とつながり、人にやさしくすることができるようになった。
父は俳句をたしなんだ。米寿をまえに入院して百日あまり、だんだん弱って食事が摂れなくなっても俳句だけは詠んだ。
病院の夜は長い。交代で夜通し付き添う子らに、眠れぬ父はよく何時かとたずねた。そして ≪ 長き夜を覚めればそこに母のあり≫ という句を書きとめた数日後、亡くなった。
人は母から生れる。人はみな、どんなかたちであれ、母と出会う。その出会いは華々しいドラマではない。平凡で、地味で、他人が見れば退屈なドラマかもしれない。しかし母の魂と子の魂が深く切り結ぶ、世界にひとつしかない真剣なドラマだ。このドラマを演じて、人は人のこころをもつにいたる。
米寿をすぎて母は生きている。わたしの出会いのドラマは、これからどうなるにせよ、いずれ幕はおりる。その日まで母は真剣にドラマを演じるだろう。
わたしも真剣に演じるしかない。そうすることが人の人たる所以(ゆえん)であると思うから。 おわり