母のことを書いたのでこの機会に、十二年前に応募のために書いたエッセイを載せます。
長くなるので恐縮ですがお読みいただけたらうれしいです。
母の藤村全集
85歳になる母は、私の家から車で10分ほどの神戸の高台に住んでいる。昨年定年で退職してから、私は週に二、三度母を訪ねることにしている。母は近くの市場に自分で買物に行くのでとりたてて用事はないが、仏さんに線香をあげ、お茶を飲んで帰る。
88歳で亡くなった父の一周忌法要が無事に済み、母はほっとしたらしい。父の残した本や衣類を処分し、ついでに自分の書棚も整理しはじめた。
梅雨の晴れ間のある朝訪ねたとき、母は部屋の隅を指して、何気ないふうにいった。
「これ捨てようと思うけど」
青い布の表紙に金文字を押した本が積んである。見覚えのある島崎藤村の全集だ。
「一応持ってかえる。おれもいらんようなら、こっちで捨てるから」
私は数十冊の本を紙袋に詰めた。
わが家に帰ってから、紙袋の本を出して第一巻から順に並べてみた。三十一巻そろっている。一回目の配本はたしか第四巻の『破戒』だった、と思って奥付を調べてみた。昭和31年4月5日となっている。
あの頃は父と母の仲がわるかった。そしてわが家は貧しかった。
父は小学校の教員をしていて、戦時中母と私たち三人の子供をつれて朝鮮に渡り、敗戦後山陰の田舎に引揚げてきた。
父は人づきあいが苦手で、人の行きたがらない分校に勤めることを希望した。母と私たちは父について分校に行き、校舎の端の六畳の部屋で寝起きした。村の子供たちが登校してくる時間になると、布団をたたんで部屋の隅に積み上げ、廊下に出しておいた丸いお膳や鍋を運び入れた。
やがて妹が生れたが二歳で病死した。山奥の村には医者がいなかった。なおも分校に勤めると言う父を残して、母は子供たちをつれて町に出る決心をした。
町に出るといっても住む家はない。母は女学校時代の友だちにあちこち声を掛けてもらい、六畳一間の離れに住むことになった。
土曜日には父が、分校から停留所まで何時間か歩き、バスに乗って帰ってきた。長男の私は中学一年、妹が小学校五年生、弟が四年生のとき、下の弟が生れた。
妹が中学に入った昭和27年、やっと六畳二間に三畳の町営住宅に入ることができた。傘をさして便所に行かなくてもよくなった。子供たちは自分の布団を敷いて寝られるようになった。父も本校に変わった。
父が家から通勤するようになると、わが家の空気が重苦しくなった。父がむすっとした顔でこたつに入る。子供たちはこたつから離れ、息をひそめてお膳で宿題をする。父は、「わしゃ、一人で暮らす」といって、二年後にふたたび分校に上がってしまった。
父は給料の一部した母に渡していなかったようで、母はいつも苦労していた。私たちはつぎつぎ高校に進んだが修学旅行に行かなかった記憶がある。母はなんとか自立して子供たちを育てようと、保険の外交員をし、保母の資格をとって保育所に勤めた。しかし臨時保母の給料での自立は無理だった。
昭和31年私は地元の大学に入った。桜のつぼみもまだ固いある日、母は私たちを前に並べて、頼みがあるといった。
「お母ちゃんは山に上がって、お父ちゃんといっしょに暮らそうと思う。そうしたらおまえたちを大学にやれる」
母は言葉をついで、こんど島崎藤村の全集が出る、藤村には女学校のときからずっと憧れとった、おまえたちに貧乏させといて心苦しいけど藤村全集を買いたい、といった。自分の物など買ったことのない母の頼みに、私たちはうなずいた。
母が父の分校に上がった日、私は荷物を担いでいっしょに山に上がった。バスを降りて、春の陽をあび谷川のせせらぎを聞き、時間をかけて山道をのぼった。そして私だけが山を下りてきた。
私たちはつぎつぎと社会人になり、神戸や大阪で暮らすようになった。父は定年で退職すると、退職金で田舎町に家を建てた。
盆暮れに夜行列車でつぎつぎ帰省する子供たちを迎えるのが、父と母のたのしみになった。そのうち子供たちはつれあいや孫をつれて帰るようになった。
母が63歳のとき、父と母は神戸に出てきた。都会で暮らすことは母の長年の夢であった。父はむろん反対した。67歳にもなって都会に出るのは、死ねということだと怒った。しかし結局、父と母は田舎の家をたたんで神戸の高台に住むことになった。
神戸に出てしばらくして、母は小説の同人誌が創刊されると聞き、仲間に加えてもらった。それまで文章を書くといえば、手紙と新聞の投書くらいであった。小説というものを書いたことはなかったが、母はなんとか作文を仕上げて同人誌に出した。
母はまず、自分の人生でもっとも懐かしい幼い頃の思い出を書いた。やがて自分の生きてきた道を、さまざまな切り口で書くようになった。
地域の作家を招いての合評会に参加し、メモを見て学んだことを反芻(はんすう)した。短編小説を筆写し、新聞記事のスクラップをため込み、大阪に出掛けて文学学校の講義を受けた。
母の書棚は自分の本や同人誌、文学仲間の自費出版物でいっぱいになり、書棚がもう一つ横に並んだ。それにもすき間なく本が並び、母は作品を書く合間に何度も整理した。しかしいつ訪ねても、藤村全集は中段のいちばんいい場所に並べてあった。
藤村の小説の中でもとくに『新生』に引かれた、と母が話したことがある。妻の亡くしたあと手伝いに入った姪を妊娠させ、それを小説に書かずにおられなかった作家は、文学少女の魂を射たらしい。
母はときに50枚、80枚の小説を書くようになった。どの作品も母の生きてきた道が題材になっていた。母につながる身近な人々が登場し、みんな善良な好人物に描かれていた。文学を志す母の本意は別にあったであろうが、ぬくもりのある穏やかな人間関係が浮き彫りになる作品だった。
小説の同人誌は12年間休まず季刊で発行された。母はその毎号に自分の作品を出した。同人誌は50号を区切りにいまは年二回の発行となり、母は短い作品を書いている。
母は十年ほど前から短歌雑誌の会員となり、短歌づくりに励むようになた。この頃はいつ訪ねても短歌雑誌の歌を抜き書きし、歌人の全集を見ている。
一方父は、退職してから家に引っ込んでばかりいた。神戸で暮らすようになればさらに閉じ籠るだろう、と子供たちは心配した。しかし神戸に出ると間もなく、老人憩いの家に出掛けて碁を打つようになった。気のいい父は、いつでも初心者の相手をした。老人会の俳句サークルに加わり、俳句の同人誌に投稿し、泊まりがけの吟行に参加した。
父の目には、都会の風物が新鮮に写ったようだ。老人無料パスで市バスに乗り、デパートや港や水族園に出掛けた。湊川神社の祭りや須磨寺のお大師さんの縁日に出掛け、少年のような好奇心で露店を見てまわり、がらくたを買ってきた。妻や私と西国三十三カ所観音霊場巡りもした。素朴な人柄を買われてか、ある年には地域の老人会長にも推された。
88歳の正月を迎えて間もなく、父は肺炎で入院した。肺炎がよくなりかけると食事が出た。食べたものが肺に入り、たま肺炎をぶり返した。
父が入院した百日あまりの日々、子供たちとつれあいは勤めをやりくりして交代で付き添った。
父は5月に亡くなった。
母は小柄である。いまの体重は30キロほどだろう。戦時中父について朝鮮に渡ったときは大病を患い、幼い三人の子供をつれて先に内地に帰った。戦後、小間物の行商をして山奥のを歩きまわったときは、家に帰ると疲れてへたり込んでいた。上の三人が大学、下の弟が小学校に通っていた頃には、医者に肝硬変の疑いがあるといわれた。母は死を覚悟した。それを手紙のかたちで私たちに伝え、親として何もしてやれなかった、と詫びた。
母の人生には、死と向き合うときが幾度かあったであろう。
だが人にはそれぞれ寿命があるらしい。母はいまも細く生きている。心と体のもとめるままに起居し、与えられた寿命を粗末にしないよう心掛けて暮らしている。
藤村全集を手にとると、町営住宅を思い出す。母はこの本を押入れの隅にしまっていた。表も裏も表紙のちぎれてしまった数冊の古い本の横で、この本だけが光っていた。
大学生になったばかりの私は、最初に配本された『破戒』を引き込まれるように読んだ。次に配本されたのは『夜明け前』第一部上だった。私は読みかけて難渋し、数十頁でやめた。そして43年が過ぎ、その本はいま私の手元にある。
母は藤村全集を捨てるといった。
手の力が自然にぬけて、何かが指の間からこぼれ落ちたのだろうか。秋の暮れに山里の柿がしずかに落ちるように。
この本は、だまってこのままもらっておこう。 おわり
※ これを書いた数年後、藤村全集はまた母の元に戻りました。小さい活字でもう読めませんが、いまも本棚に並んでいます。父の一周忌前後母は体調を崩して子らが集ったこともありましたが、90歳を通過し13回忌も何もせずにやり過ごして、いまは竹薮で『仕事』に励んでいます。寿命というのはわからないものです。
長くなるので恐縮ですがお読みいただけたらうれしいです。
母の藤村全集
85歳になる母は、私の家から車で10分ほどの神戸の高台に住んでいる。昨年定年で退職してから、私は週に二、三度母を訪ねることにしている。母は近くの市場に自分で買物に行くのでとりたてて用事はないが、仏さんに線香をあげ、お茶を飲んで帰る。
88歳で亡くなった父の一周忌法要が無事に済み、母はほっとしたらしい。父の残した本や衣類を処分し、ついでに自分の書棚も整理しはじめた。
梅雨の晴れ間のある朝訪ねたとき、母は部屋の隅を指して、何気ないふうにいった。
「これ捨てようと思うけど」
青い布の表紙に金文字を押した本が積んである。見覚えのある島崎藤村の全集だ。
「一応持ってかえる。おれもいらんようなら、こっちで捨てるから」
私は数十冊の本を紙袋に詰めた。
わが家に帰ってから、紙袋の本を出して第一巻から順に並べてみた。三十一巻そろっている。一回目の配本はたしか第四巻の『破戒』だった、と思って奥付を調べてみた。昭和31年4月5日となっている。
あの頃は父と母の仲がわるかった。そしてわが家は貧しかった。
父は小学校の教員をしていて、戦時中母と私たち三人の子供をつれて朝鮮に渡り、敗戦後山陰の田舎に引揚げてきた。
父は人づきあいが苦手で、人の行きたがらない分校に勤めることを希望した。母と私たちは父について分校に行き、校舎の端の六畳の部屋で寝起きした。村の子供たちが登校してくる時間になると、布団をたたんで部屋の隅に積み上げ、廊下に出しておいた丸いお膳や鍋を運び入れた。
やがて妹が生れたが二歳で病死した。山奥の村には医者がいなかった。なおも分校に勤めると言う父を残して、母は子供たちをつれて町に出る決心をした。
町に出るといっても住む家はない。母は女学校時代の友だちにあちこち声を掛けてもらい、六畳一間の離れに住むことになった。
土曜日には父が、分校から停留所まで何時間か歩き、バスに乗って帰ってきた。長男の私は中学一年、妹が小学校五年生、弟が四年生のとき、下の弟が生れた。
妹が中学に入った昭和27年、やっと六畳二間に三畳の町営住宅に入ることができた。傘をさして便所に行かなくてもよくなった。子供たちは自分の布団を敷いて寝られるようになった。父も本校に変わった。
父が家から通勤するようになると、わが家の空気が重苦しくなった。父がむすっとした顔でこたつに入る。子供たちはこたつから離れ、息をひそめてお膳で宿題をする。父は、「わしゃ、一人で暮らす」といって、二年後にふたたび分校に上がってしまった。
父は給料の一部した母に渡していなかったようで、母はいつも苦労していた。私たちはつぎつぎ高校に進んだが修学旅行に行かなかった記憶がある。母はなんとか自立して子供たちを育てようと、保険の外交員をし、保母の資格をとって保育所に勤めた。しかし臨時保母の給料での自立は無理だった。
昭和31年私は地元の大学に入った。桜のつぼみもまだ固いある日、母は私たちを前に並べて、頼みがあるといった。
「お母ちゃんは山に上がって、お父ちゃんといっしょに暮らそうと思う。そうしたらおまえたちを大学にやれる」
母は言葉をついで、こんど島崎藤村の全集が出る、藤村には女学校のときからずっと憧れとった、おまえたちに貧乏させといて心苦しいけど藤村全集を買いたい、といった。自分の物など買ったことのない母の頼みに、私たちはうなずいた。
母が父の分校に上がった日、私は荷物を担いでいっしょに山に上がった。バスを降りて、春の陽をあび谷川のせせらぎを聞き、時間をかけて山道をのぼった。そして私だけが山を下りてきた。
私たちはつぎつぎと社会人になり、神戸や大阪で暮らすようになった。父は定年で退職すると、退職金で田舎町に家を建てた。
盆暮れに夜行列車でつぎつぎ帰省する子供たちを迎えるのが、父と母のたのしみになった。そのうち子供たちはつれあいや孫をつれて帰るようになった。
母が63歳のとき、父と母は神戸に出てきた。都会で暮らすことは母の長年の夢であった。父はむろん反対した。67歳にもなって都会に出るのは、死ねということだと怒った。しかし結局、父と母は田舎の家をたたんで神戸の高台に住むことになった。
神戸に出てしばらくして、母は小説の同人誌が創刊されると聞き、仲間に加えてもらった。それまで文章を書くといえば、手紙と新聞の投書くらいであった。小説というものを書いたことはなかったが、母はなんとか作文を仕上げて同人誌に出した。
母はまず、自分の人生でもっとも懐かしい幼い頃の思い出を書いた。やがて自分の生きてきた道を、さまざまな切り口で書くようになった。
地域の作家を招いての合評会に参加し、メモを見て学んだことを反芻(はんすう)した。短編小説を筆写し、新聞記事のスクラップをため込み、大阪に出掛けて文学学校の講義を受けた。
母の書棚は自分の本や同人誌、文学仲間の自費出版物でいっぱいになり、書棚がもう一つ横に並んだ。それにもすき間なく本が並び、母は作品を書く合間に何度も整理した。しかしいつ訪ねても、藤村全集は中段のいちばんいい場所に並べてあった。
藤村の小説の中でもとくに『新生』に引かれた、と母が話したことがある。妻の亡くしたあと手伝いに入った姪を妊娠させ、それを小説に書かずにおられなかった作家は、文学少女の魂を射たらしい。
母はときに50枚、80枚の小説を書くようになった。どの作品も母の生きてきた道が題材になっていた。母につながる身近な人々が登場し、みんな善良な好人物に描かれていた。文学を志す母の本意は別にあったであろうが、ぬくもりのある穏やかな人間関係が浮き彫りになる作品だった。
小説の同人誌は12年間休まず季刊で発行された。母はその毎号に自分の作品を出した。同人誌は50号を区切りにいまは年二回の発行となり、母は短い作品を書いている。
母は十年ほど前から短歌雑誌の会員となり、短歌づくりに励むようになた。この頃はいつ訪ねても短歌雑誌の歌を抜き書きし、歌人の全集を見ている。
一方父は、退職してから家に引っ込んでばかりいた。神戸で暮らすようになればさらに閉じ籠るだろう、と子供たちは心配した。しかし神戸に出ると間もなく、老人憩いの家に出掛けて碁を打つようになった。気のいい父は、いつでも初心者の相手をした。老人会の俳句サークルに加わり、俳句の同人誌に投稿し、泊まりがけの吟行に参加した。
父の目には、都会の風物が新鮮に写ったようだ。老人無料パスで市バスに乗り、デパートや港や水族園に出掛けた。湊川神社の祭りや須磨寺のお大師さんの縁日に出掛け、少年のような好奇心で露店を見てまわり、がらくたを買ってきた。妻や私と西国三十三カ所観音霊場巡りもした。素朴な人柄を買われてか、ある年には地域の老人会長にも推された。
88歳の正月を迎えて間もなく、父は肺炎で入院した。肺炎がよくなりかけると食事が出た。食べたものが肺に入り、たま肺炎をぶり返した。
父が入院した百日あまりの日々、子供たちとつれあいは勤めをやりくりして交代で付き添った。
父は5月に亡くなった。
母は小柄である。いまの体重は30キロほどだろう。戦時中父について朝鮮に渡ったときは大病を患い、幼い三人の子供をつれて先に内地に帰った。戦後、小間物の行商をして山奥のを歩きまわったときは、家に帰ると疲れてへたり込んでいた。上の三人が大学、下の弟が小学校に通っていた頃には、医者に肝硬変の疑いがあるといわれた。母は死を覚悟した。それを手紙のかたちで私たちに伝え、親として何もしてやれなかった、と詫びた。
母の人生には、死と向き合うときが幾度かあったであろう。
だが人にはそれぞれ寿命があるらしい。母はいまも細く生きている。心と体のもとめるままに起居し、与えられた寿命を粗末にしないよう心掛けて暮らしている。
藤村全集を手にとると、町営住宅を思い出す。母はこの本を押入れの隅にしまっていた。表も裏も表紙のちぎれてしまった数冊の古い本の横で、この本だけが光っていた。
大学生になったばかりの私は、最初に配本された『破戒』を引き込まれるように読んだ。次に配本されたのは『夜明け前』第一部上だった。私は読みかけて難渋し、数十頁でやめた。そして43年が過ぎ、その本はいま私の手元にある。
母は藤村全集を捨てるといった。
手の力が自然にぬけて、何かが指の間からこぼれ落ちたのだろうか。秋の暮れに山里の柿がしずかに落ちるように。
この本は、だまってこのままもらっておこう。 おわり
※ これを書いた数年後、藤村全集はまた母の元に戻りました。小さい活字でもう読めませんが、いまも本棚に並んでいます。父の一周忌前後母は体調を崩して子らが集ったこともありましたが、90歳を通過し13回忌も何もせずにやり過ごして、いまは竹薮で『仕事』に励んでいます。寿命というのはわからないものです。