古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

『ペリリュー島の戦い』で言いたいこと

2015年04月11日 06時10分53秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 新聞やテレビのニュースで「ペリリュー島」という文字を目にすると、これだけは言いたいと思うことがあります。
「あんな小さい島は3日で占領してやる」とアメリカ軍は雨のように砲弾を降らせました。もう占領する価値も意味もなくなっていましたが指揮官たちの功名争いと意地で。アメリカ軍は上陸して2カ月以上かけて、たくさんの戦死者を出してやっと占領しました。
 日本軍は1万人の守備隊が果敢に戦い(時間稼ぎをし)、玉砕しました。
 その最後の日本軍の電報の「やりとり」を『ペリリュー島 玉砕戦』(船坂 弘 著・光人社NF文庫)より引用します。


 最後の決戦に備え、中川大佐は11月5日夕刻に、ペリリュー守備隊の戦闘人員を掌握した。軽傷者を含む350名、ほかに重傷者130名、計480名。 …… パラオ司令部に戦況を送るため、暗号士に電文を組ませた。
「 …… 中川地区隊長以下壕内に於て陣頭指揮に徹し、将兵の士気旺盛にして全員敵飛行場に斬り込まんとする状況なり。水筒は2日より5日迄制限、糧食は食い延ばし炒米、塩と粉味噌とを以ってする忍苦の生活を送る事既に幾十日、 …… 状況最悪の場合に於いては、軍旗を処置したる後、おおむね3隊となり、全員飛行場に斬り込む覚悟なり。 ……   」(カタカナはひらがなに替えてます)

 …… 「この際、武人の最期を飾るため総攻撃を実施したいが、許可して頂きたい」と訴えるペリリュー島守備隊全員の気持が伝わってくる。 …… ペリリュー島大山洞窟では、中川、村井両指揮官は返電をじりじりと待ちつづけた。「直ちにパラオに撤退(転進)すべし」 / 「永い勇戦に感泣、感激す。心置きなく全員斬り込むべし、武運を祈る」返電はおそらくそのうちの一つであろう。どちらにしても敵に包囲された現在、ただあるのは玉砕のみ。(囲まれていて撤退は不可能)
 中川大佐はサイパン戦の持久を考えた。あの島には、31000名が6月15日に敵を迎撃して以来、7月7日の玉砕にいたるまで、その持久は23日間であった。つぎにテニアンの5000名はわずか7日間、グアム島は18000名で、20日間。これらに比べて考えても、ペリリュー島1万余人で約2カ月余の持久に耐えたのだ。一万余りで2カ月余ならば、サイパンの3倍の持久に耐えたことになる。敵に与えた損害も莫大であった筈だ。
 待ちに待った返電は、その日のうちに受信された。

「 …… 難局に堪え、寡兵良く衆に対し健闘を続けつつある事は、全軍讃仰の的にして、 ……。 損害逐次累積し、弾薬、糧食、飲料水等また逐次窮迫するの実情察せざるにあらざるも、地区隊がいかほど小兵力となるも、軍旗を奉じてペリリューの中央に厳乎健在しあることのみにより、いかほど我が作戦の全局に貢献し、全軍を奮起せしめ、一億の敢闘精神を鼓舞したるか、これ何人も疑うの余地なし。すなわち灼熱の闘魂に更に拍車し、あくまで持久に徹し、万策を尽くして神機到るを待つべし。全員斬り込みは易く、忍苦健在健闘するは難しかるべきも、宜しく ……  」
 
 
この後も11月24日まで戦闘はつづき、全員が戦死しました(時間稼ぎもしました)。
 ぎりぎりまで追い込まれ死を決した者への返電の「カタチだけの美辞麗句」・「過酷さ」に、なんとも言えない気持ちになります。
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