NHKのテレビ番組「プロジェクトX」を20年前に見たとき、強く印象に残ったのは〈ある女性〉でした。「電気釜づくりに精魂込めた小さい町工場・社長の奥さん」です。生きる姿に感動しました。「プロジェクトX」の本に紹介されていますので、その部分を引用します。
昭和27年、この世に「電気釜」というものはまだありませんでした。どこの家でも/米を研ぐ/釜を火にかける/火加減を調節する/飯が炊きあがる/という時代でした。そんなとき、町工場の三並さんは、親会社の東芝の人から「電気釜をつくらないか」と提案されました。
風美子(奥さんの名前)は、一人の主婦として、そんな製品ができたら家事に追われる日本中の主婦がどれだけ楽になるかと思った。「私も手伝いますから、ぜひつくってください」と風美子は言った。裸一貫から育て上げてきた町工場の存亡を懸けて、夫婦二人三脚の挑戦が始まった。
……
三並は自宅にこもって、薪やガスで何度も飯を炊いて、温度の経過を1分おきに正確に計った。…… その作業は思った以上に過酷なものになった。
妻・風美子は一日に20回、コメを研いでは炊いた。10時間以上、カマドの前で火加減を見つづけた。 …… 風美子は、茨城の出身だった。働いていた東京で三並と知り合った。心優しくも、昔気質の貞淑な女性であった。四男二女と、八人の大家族を築いた。
炊飯実験は、四カ月に及んだ。そこでつかんだのは、理想のコメの炊き方だった。
……
温度のデータをとるのは完全に風美子の仕事になっていた。昭和30年の年明け、異変が起きた。朝四時から寒い庭先で試作釜の温度計を見つめつづけていた風美子が突然倒れ込んだ。腎臓をやられていた。
三並の従兄弟の寺門正夫は、美人と評判だった風美子のあまりの変り様に、驚いたと言う。 ……
「あんた、このままじゃ死んじゃいますよ」と忠告した。
ワンマンで頑固な明治男である夫と、昔気質で夫に尽くす妻という、当時としては当たり前の夫婦の構図も、第三者的に見れば明らかに無理が生じていた。さすがの三並も、このときばかりは妻の身を案じて、「しばらく休め」と言った。しかし、風美子は「大丈夫ですから」と、実験を続けた。開発の成功は、もはや風美子自身にとっても大きな目標に変わっていた。
(ついに電気釜はできた。しかし「頑張れば自分で炊けるのにわざわざ電気釜を買う主婦がいるか」と親会社は冷たかった。セールスに力を入れる人がいて、電気釜はやっと売れはじめた。)
昭和32年、月産1万台を達成した会社は、工場内で盛大な祝賀会を催した。しかし、その席上に風美子の姿はなかった。高血圧により体調を崩し、病床に臥していた。全国の主婦のために、病をおして実験を続けてくれた妻。三並は祝賀会が終わると、すぐに病院の妻のもとに向かった。
寝たきりになっていた風美子の病床での楽しみは、夫から届けられる〝電気釜を買った主婦たちからの手紙″だった。それは毎日、全国から東芝のもとに送られてきているものだった。
「苦行から解放されました」/「落ち着いた朝晩が楽しい」/その言葉の一つひとつに、風美子は救われる思いがした。夫を信じてやってきて本当によかったと。
その後ほどなく、昭和34年、風美子は45歳の若さでこの世を去った。そのかたわらで人目も憚らずに大声で泣く父親の姿を、子どもたちは鮮明に覚えている。
自分のためにとてつもない苦労をかけ、結局早死にさせてしまった悔恨の念。三並は、風美子の早逝のショックから体調を崩し、その後開発の現場に戻ることはなかった。昭和41年、三並義忠死去。58歳だった。
以上、引用した文でも、この取材者の「風美子へのつよい思い入れ」が伝わってきます。
昭和27年、この世に「電気釜」というものはまだありませんでした。どこの家でも/米を研ぐ/釜を火にかける/火加減を調節する/飯が炊きあがる/という時代でした。そんなとき、町工場の三並さんは、親会社の東芝の人から「電気釜をつくらないか」と提案されました。
風美子(奥さんの名前)は、一人の主婦として、そんな製品ができたら家事に追われる日本中の主婦がどれだけ楽になるかと思った。「私も手伝いますから、ぜひつくってください」と風美子は言った。裸一貫から育て上げてきた町工場の存亡を懸けて、夫婦二人三脚の挑戦が始まった。
……
三並は自宅にこもって、薪やガスで何度も飯を炊いて、温度の経過を1分おきに正確に計った。…… その作業は思った以上に過酷なものになった。
妻・風美子は一日に20回、コメを研いでは炊いた。10時間以上、カマドの前で火加減を見つづけた。 …… 風美子は、茨城の出身だった。働いていた東京で三並と知り合った。心優しくも、昔気質の貞淑な女性であった。四男二女と、八人の大家族を築いた。
炊飯実験は、四カ月に及んだ。そこでつかんだのは、理想のコメの炊き方だった。
……
温度のデータをとるのは完全に風美子の仕事になっていた。昭和30年の年明け、異変が起きた。朝四時から寒い庭先で試作釜の温度計を見つめつづけていた風美子が突然倒れ込んだ。腎臓をやられていた。
三並の従兄弟の寺門正夫は、美人と評判だった風美子のあまりの変り様に、驚いたと言う。 ……
「あんた、このままじゃ死んじゃいますよ」と忠告した。
ワンマンで頑固な明治男である夫と、昔気質で夫に尽くす妻という、当時としては当たり前の夫婦の構図も、第三者的に見れば明らかに無理が生じていた。さすがの三並も、このときばかりは妻の身を案じて、「しばらく休め」と言った。しかし、風美子は「大丈夫ですから」と、実験を続けた。開発の成功は、もはや風美子自身にとっても大きな目標に変わっていた。
(ついに電気釜はできた。しかし「頑張れば自分で炊けるのにわざわざ電気釜を買う主婦がいるか」と親会社は冷たかった。セールスに力を入れる人がいて、電気釜はやっと売れはじめた。)
昭和32年、月産1万台を達成した会社は、工場内で盛大な祝賀会を催した。しかし、その席上に風美子の姿はなかった。高血圧により体調を崩し、病床に臥していた。全国の主婦のために、病をおして実験を続けてくれた妻。三並は祝賀会が終わると、すぐに病院の妻のもとに向かった。
寝たきりになっていた風美子の病床での楽しみは、夫から届けられる〝電気釜を買った主婦たちからの手紙″だった。それは毎日、全国から東芝のもとに送られてきているものだった。
「苦行から解放されました」/「落ち着いた朝晩が楽しい」/その言葉の一つひとつに、風美子は救われる思いがした。夫を信じてやってきて本当によかったと。
その後ほどなく、昭和34年、風美子は45歳の若さでこの世を去った。そのかたわらで人目も憚らずに大声で泣く父親の姿を、子どもたちは鮮明に覚えている。
自分のためにとてつもない苦労をかけ、結局早死にさせてしまった悔恨の念。三並は、風美子の早逝のショックから体調を崩し、その後開発の現場に戻ることはなかった。昭和41年、三並義忠死去。58歳だった。
以上、引用した文でも、この取材者の「風美子へのつよい思い入れ」が伝わってきます。