岩波新書『アジア・太平洋戦争』(吉田裕著/2007年発行)を注文しました。読み終わって、やっぱり手元に置いておきたくなりました。
この本を手にとり、任意のページを読んで、あの戦争に、無念の思いを抱いて死んだ人々に、思いをはせる。そんな〈とき〉を、生ある限り持ちたい。
あの本で、あらためて知り、そして思ったのは、東条英機のことです。
その① 東条英機はあの時代に「一番の英雄」だった。ぼくがもう10年早く生れて、昭和16年開戦のとき、14歳だったら、愛国少年になり、東条英機を〈英雄〉として憧れ、ワクワクして、連日の戦果を新聞で読み、大本営発表のラジオを、小おどりして聞いたでしょう。彼が総理大臣になるとすぐ、ハワイ・真珠湾の勝利/シンガポールの陥落/アジアの英国軍を降伏させる/連日の連戦連勝報道/。その報道に日本中がわき立ちました。東条英機の〈人気ぶり〉を引用します。
重要なことは、知識人の反発にもかかわらず、一般の国民が東条を強く支持していたことである。
(中略)実際、東条首相は、各地で国民に熱烈に歓迎された。42年(昭和17年)7月27日、大阪の中央公会堂で開催された「大東亜戦争完遂国民総力結集大講演会」の折には、講演を終えて退場する東条首相を熱狂した群衆がとりかこんだ。28日付の『朝日新聞』は、その場の状況を、「熱狂した数千の聴衆は、帽子、扇子を打ち振り打ち振り、〝万歳々々″ と歓声をあげ、(中略)あっという間に東条さんを取り囲む。「しっかりやります、やりますとも」「米英撃滅だ、東条閣下お願ひします」「東条首相万歳」と群がる市民は熱狂して全く感激のるつぼだ」と報じている。これが誇張でないことは、同日の首相秘書官の記録に、「総理自動車、会衆の圧倒的歓迎に取り囲まれ約10分、会衆の中を徐行する」とあることからもわかる(前掲『東条内閣総理大臣機密記録』)。
さらに、東条に関する評伝をまとめた作家の保坂正康も、この頃の東条について、「東京・四谷のある地区では、東条が毎朝、馬に乗って散歩するのが知れわたり、その姿を一目見ようと路地の間で待つ人がいた。東条の乗馬姿を見ると、その日は僥倖(ぎょうこう)に恵まれるという〈神話〉が生まれた」と書いている。東条は、一般の国民にとって、「救国の英雄」だった(保坂『東条英機と天皇の時代(下)』。
※ この本はすべて〈西暦の年号〉で書かれていますが、戦前生れのぼくたちの世代は〈昭和〇〇年〉で時代の見当をつけますので、ぼくが追記しました。 この項つづく
この本を手にとり、任意のページを読んで、あの戦争に、無念の思いを抱いて死んだ人々に、思いをはせる。そんな〈とき〉を、生ある限り持ちたい。
あの本で、あらためて知り、そして思ったのは、東条英機のことです。
その① 東条英機はあの時代に「一番の英雄」だった。ぼくがもう10年早く生れて、昭和16年開戦のとき、14歳だったら、愛国少年になり、東条英機を〈英雄〉として憧れ、ワクワクして、連日の戦果を新聞で読み、大本営発表のラジオを、小おどりして聞いたでしょう。彼が総理大臣になるとすぐ、ハワイ・真珠湾の勝利/シンガポールの陥落/アジアの英国軍を降伏させる/連日の連戦連勝報道/。その報道に日本中がわき立ちました。東条英機の〈人気ぶり〉を引用します。
重要なことは、知識人の反発にもかかわらず、一般の国民が東条を強く支持していたことである。
(中略)実際、東条首相は、各地で国民に熱烈に歓迎された。42年(昭和17年)7月27日、大阪の中央公会堂で開催された「大東亜戦争完遂国民総力結集大講演会」の折には、講演を終えて退場する東条首相を熱狂した群衆がとりかこんだ。28日付の『朝日新聞』は、その場の状況を、「熱狂した数千の聴衆は、帽子、扇子を打ち振り打ち振り、〝万歳々々″ と歓声をあげ、(中略)あっという間に東条さんを取り囲む。「しっかりやります、やりますとも」「米英撃滅だ、東条閣下お願ひします」「東条首相万歳」と群がる市民は熱狂して全く感激のるつぼだ」と報じている。これが誇張でないことは、同日の首相秘書官の記録に、「総理自動車、会衆の圧倒的歓迎に取り囲まれ約10分、会衆の中を徐行する」とあることからもわかる(前掲『東条内閣総理大臣機密記録』)。
さらに、東条に関する評伝をまとめた作家の保坂正康も、この頃の東条について、「東京・四谷のある地区では、東条が毎朝、馬に乗って散歩するのが知れわたり、その姿を一目見ようと路地の間で待つ人がいた。東条の乗馬姿を見ると、その日は僥倖(ぎょうこう)に恵まれるという〈神話〉が生まれた」と書いている。東条は、一般の国民にとって、「救国の英雄」だった(保坂『東条英機と天皇の時代(下)』。
※ この本はすべて〈西暦の年号〉で書かれていますが、戦前生れのぼくたちの世代は〈昭和〇〇年〉で時代の見当をつけますので、ぼくが追記しました。 この項つづく