古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

ぼくの針が振れるところ

2022年09月23日 04時04分23秒 | 古希からの田舎暮らし
 中沢啓治の『ヒロシマの空白』(中沢家始末記)を、夜中に読みおわりました。その中で一か所だけ引用するとしたら、次の部分です。原子爆弾が投下され、多くの人間が数千度で焼き殺され、敗戦後の「食糧難」と「飢え」がはじまります。中川家は父/妹/幼い弟/が原爆で亡くなり、残った家族は飢えに苦しみます。


 次兄と私は、来る日も来る日も食料漁りに明け暮れた。母は夜遅くまで働きづめで、毎日疲れ切って帰って来た。長兄は学徒動員で習った溶接の技術を生かして、町工場の臨時工として働いた。家族全員が必死で生きる闘いをつづけているのに、貧しさはいつまでも変わらなかった。日本中が飢えているのだからしかたがない、と思っていたが、まったく反対の食生活をしている者がいることを知った。隣の家の主人は陸軍病院に勤務していたのだが、連日のように封を切らない天ぷら油の一斗缶を数缶持ち帰り、魚や野菜の天ぷらを揚げる匂いが風に乗って流れ、私たちの腹をえぐった。その家の主人は夜になると出掛けて行き、コメ、麦、大豆、魚や牛の缶詰を持ち帰って貯め込んでいた。勝手知ったる陸軍の貯蔵庫から、せっせと持ち帰っているのだと思うが、とにかく雲泥ほども違う豪勢な食事をしていた。鶏を数羽持ち帰り、私たちの見ている前で首を刎ねて血を抜き熱湯の釜に入れて羽をむしり、やき鳥や天ぷらにして食べている姿がうらやましくてしかたがなかった。翌日、その家の子供がおやつ替りに鳥の骨を数本持ち、私たちに見せびらかせて旨そうに骨の髄を吸っている姿に、骨の一本でも貰えないかと生唾を飲んだ。軍関係に携わっていた者は戦中も戦後も甘い汁を吸っていたのだ。この頃、江波の方々の畑では作物を集団で盗みに来て、畑の持ち主に木刀で頭を割られ二人の子供が死んだとか、日常茶飯事のように人が殺される話を聞かされた。原爆孤児たちや飢えた者が江波の町に食料を求めてやって来ては、命がけの闘いが展開されていたのだ。戦争と原爆は、死ぬも地獄、生きるも地獄であった。


 空襲の体験はありませんが、敗戦後の食糧難は骨身にしみて知ってます。日本が戦争に負けて、朝鮮の学校から命からがら内地に帰還した父は、昭和20年秋から鳥取県日野郡の山奥の分校に勤めることになり、一家は分校に住みました。
 村の30戸ほどの家はみんな農家でした。うちは配給をうけるのですが、米でなく高粱(こうりゃん)が配給になりました。それも少なく、3人の子どもはいつも腹を空かせていました。ツンバナやシンジャ(酸い葉)も桑イチゴもアケビも食べました。
 敗戦後、軍関係の人が食料を私物化したり横流ししたりするのを読むと、ほんとに腹が立ちます。西村京太郎が幼年学校一年生のとき戦争に負けると「上官たちが物資を横領した」と書いてました。そんなことが全国の軍の貯蔵庫であったことでしょう。
 あのときの食糧の横領・横流しを読むと、80年すぎた今も、ぼくの中の針が大きく振れます。



 
コメント
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