古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

兵庫県老連『きずな』より転載します。

2010年02月08日 22時50分07秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 兵庫県老人クラブ連合会の2010.1.1.付けの機関紙『きずな』に感動した投書がありました。そのまま転載します。

   百年先を見据える元気老人    朝来市老連 佐藤 導顕

 わが老人クラブの奇特な元気老人を紹介します。名は松本保、生まれは朝来市和田山町高生田、大正7年1月2日の現在92歳。いたって元気なり。
 昭和10年応召。主として北中支方面で活躍し胸背部貫通銃創を受けるも、戦後昭和21年4月14日、着の身着のままで大陸より無事復員。御多分に洩れず食糧難の時代、土地を開墾しサツマイモづくりと薪を作り商いする。努力の甲斐あって、その後牛を飼いながら家畜商を始める。この間雑木山を買い取り、桧・杉の植樹に精を出す。生活も軌道に乗りつつある矢先、昭和43年5月に長男を交通事故で亡くす。また最愛の妻が昭和47年4月に脳血栓で倒れ、リハビリの甲斐なく左半身不随となる。
 大変な不幸に見舞われたが、悲しみの内にも持ち前の頑張りで、負けずに立ち上がる。以後、妻の通院の必要から59歳で自動車運転免許を取得し、妻の通院・介護と山林の取得・植樹に励む。現在所有の山は40町歩となり、間伐・枝打ちなどは、すべて完了している。
 平成7年「全国優良家畜商」として全国表彰を受ける。また商い中、仲人を依頼され、120組をまとめ上げ、いまだに2組以外離婚者がいないのが自慢である。
 現在は39年間にわたる他人も敬服するような妻の在宅介護のかたわら、山にケヤキの植樹に励んでいる。それも苗つくりから行っている。すでに15年間に5000本の植樹を済ませているが、現在も畑には苗が500本育ちつつある。寄る年波にはかなわず、現在大部分は職人さんに依頼しているが、近くの山には杖をついて行き、山に入ると刀鍬を使って植樹している。
 ケヤキは百年たたないと用材にならぬといわれているが……。この先、桜山公園をつくる計画中で、今吉野桜120本(三年生)養育中。まったく頭が下がると共に敬服のいたりです。ますます元気で頑張ってほしいものである。

 ………………  ← これ、ぼくの無言のしるしのつもり。 以上  
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蓮花寺の鬼踊りで松明をゲット

2010年02月08日 04時16分00秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうの日曜日、近くの蓮花寺で節分の鬼踊りがありました。人出を考えて日曜日に行われます。午後は寒さがゆるみ、多くの人が見物に来ていました。写真は僧侶たちによる長い長い読経が終り(マジで実に長い)、本堂を出た鬼が松明を持って境内を一周するところです。この後また本堂に入って鬼踊りの本番です。
 ぼくはどんな心構えと態度で参加したかって? 見ている人の群に投げられる松明をゲットし、餅まきで投げられる餅をキャッチする。ひたすらそれだけを目ざして、アラコキじいさんは頑張ってきました。娘夫婦や孫の萌も道子さんもそれなりに頑張ったようです。
 まず服装。化繊系の上着は火の粉が飛ぶと穴が空きます。だから木綿の上っ張りを着てガード。手にはチェンソー用に買った皮手袋をしました。これで火のついた松明でも空中でつかまえられる。
 去年はどんな祭りか知らなかったので不覚をとりましたが、今年は最初から服装と気迫が違い、それなりの結果を得ました。みんなで松明三本と餅たくさんをゲットして、意気揚々と帰ってきました。
 松明をゲットして本堂前のテントに持っていくと、係の人がお札付きの袋に入れ手ぬぐいを添えて渡してくれます。それを家の、人がくぐる場所に置くと、無病息災・怪我をしない一年を過ごせるそうです。玄関の長押に置いた去年の松明は、村のとんどで燃やしましたから、お守り交代です。
 もう一つ、五円玉の花飾りがついた木の枝が天井から下りてきて、それをゲットする行事もあるのですが、それにははじめから参加しませんでした。枝を下ろす前に、子どもは本堂に残らず外に出る・メガネははずす・帽子はしまっておく・といった諸注意があるものですから、やっぱりねー。 
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安納芋の干し芋は一番おいしい。

2010年02月07日 00時48分43秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 写真は安納芋を蒸して干しているところです。蒸して皮をむき、半分に切った芋もおいしいのですが、干した芋を焼いて食べるのが実にうまい。
 クリーミーでやわらかく、甘みがつよい芋というふれこみで去年は安納芋をはじめてつくりました。鉢植えを一株注文し、7月になってから畑に植えなおし、ツルをとって5株増やしただけでしたが、よく採れました。今年は苗を10株注文し、早めに植え、ツルをとって作付けを増やしたい。たのしみです。
 サツマイモは冬の保存がむずかしいです。子どもの頃は床下にむろをつくり、モミガラの中に入れていました。むろに入って芋をとってくるのは身軽な子どもの役目で、おばあちゃんに「芋を二つとってこい」とよく言い付けられたものです。
 サツマイモは寒さによわい。うちでは発泡スチロールの箱にモミガラを入れ、芋を中に埋め込み、箱を冷蔵庫の上に置きます。冷蔵庫の上はある程度の温度になるから。それでもこの厳冬期には腐ることがあります。ほんとうは10度以下にならないような地下室がいいのでしょうね。
 そういえばコンニャクは一度つくっただけです。まだ数回つくれるほど芋があるのですが、いろいろすることがあってそのままになっています。またつくります。
 裏山に木を植えるのはたのしい仕事になりました。そんなに大きな穴を掘らないことにしたので。去年までは直径60センチ深さ50センチの穴を掘って植えていましたが、今年は直径40センチ深さ40センチ以下の穴に植えています。らくになりました。また木の苗を買ってこようかな。
 畑にジャガイモの畝をつくる時期になりました。堆肥を入れて畝をつくるのですが、コープ瑞穂農園に堆肥をもらいに行かなくては。もうすぐあたたかくなるでしょう。畑仕事がいっぱい待ってます。
 
 
 
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ウグイスなんかが来てくれないかなー。

2010年02月06日 03時05分39秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 裏山に小鳥の餌場を取り付けました。手前の下生えの上に餌場を置き、プリンの容器に水を入れ、砕いた大豆をまいています。檜の板で作ったのでいい香りがします。竹を伐ったので小鳥がときどき来るのですが、まだ止まってくれません。ヒヨドリでなく、ジョウビタキとかウグイスとかメジロとかが来てくれたらいいな。
 ネットで見ると小鳥の家の作り方が紹介してあります。近日中に作ってみます。
 それにしてもいいたたずまいだなー、と気に入っています。コナラの林の向こうにいろんな苗木を植えたスペースがあり、その先に我が家があり、その先に田舎の景色が広がります。
 考えてみると、去年の今頃は家の横に小屋を作ろうと連日工事に没頭していました。土を運び、セメントを流し込む枠をつくり、小屋を建て、棚をつくり、屋根に塗料を塗っていました。今年は竹を伐って片付け、下生えを伐り、木を植え、小鳥の餌場をつくっています。
 でもふっと考えることがあります。
 こうしてなんとか元気に体をつかって毎日仕事をして(一文にもならないけど)すごしているけれど、ブログで書くのはほとんど『老いの自慢』です。貧しくても悠々自適。気持ちだけはゆとりのセカンドライフ。晴耕雨読・行雲流水・明鏡止水の田舎暮らし。
「人間が生きる」とはそんな生易しいことなのか。人間は命と力をぎりぎりまでつかって、精いっぱい生きる生き物ではないのか。与えられた能力は次第に小さくなっても、終焉の日までなにかの役に立とうとする意志だけは持ちつづける生き物ではないのか。
 犬の細胞と人間の細胞では、ほとんど生きる能力の差はない。しかし犬は20年生きることはない。人間は100年生きる。その差は「生きる意志」にある。その生きる意志とは。おいしいものを食べてまわり、おもしろおかしくすごすことなのか。 また考えます。
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凧揚げの糸巻きを自作しました。

2010年02月05日 06時50分09秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 大志くんがお正月に凧揚げをしたときは、80メートルプラス30メートルの糸を繰り出しました。高く揚がっていい気分だったけど、あとで細い棒に巻き取るのは大変でした。それを見ていたおじいちゃんは、太い糸巻きを作ることにしました。
 板に切り込みを入れて十文字に組み合わせて作ろうか。板切れに持ち手の穴を開けてそれに巻き取るようにしようか。あれこれ考えて写真の糸巻きを作りました。竹を一本切倒して節のところを切り取り、それに切り込みを入れ、柄を付けた板を止めたのです。柄は4,5センチ角の垂木を丸く削って作りました。多少重いけどワイルド感があり、子どもでも持てます。竹の直径が8センチなので一巻き25センチほど巻けます。こんなもの一つでも、いざ作るとなるとずいぶん頭を使った気がします。
 竹を切った裏山に小鳥たちが来てくれるように、餌と水を置く台を作りました。餌は、去年選別して捨てるほうの大豆をゲンノウで砕きました。水は板にホールソーで穴を開け、プリンの容器をはめ込みました。台の材料は檜の板にしました。自然志向の小鳥たちはベニヤ板には寄り付かないかと思って。
 そういえば裏山にすずめは来ません。200メートルほど下った村のほうでは、すずめの群れが軒先や電線に止まって鳴いています。小鳥たちには縄張りがあって、里のすずめは山には上がってこないようです。そろそろウグイスの“一番鳴き”が聞えないかなー。
 きのうのブログでふれたポーランド共和国の『ザリー』は、合板工場のある市ということだけわかりました。日本が合板を輸入している認定工場リストに載っていました。合板を世界中から輸入しているのですね。びっくりしました。 
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堆肥入れのふたにペンキを塗りました。

2010年02月04日 02時17分39秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 裏山で竹を切って地面に置き、その上に前の日につくった堆肥入れのふたを並べて、水性ペンキを塗りました。(ぼくは左利きです)奥の竹薮にシイタケの原木置き場があり、いまでもぼちぼちシイタケが出てます。生長は遅いですが。塗料も進化していますね。以前は「やっぱり油性塗料でなくちゃ」と思っていましたが、寒くて乾きにくいので水性塗料にしました。塗りやすかったです。
 塗りながら、こんな広い場所をとって好き勝手に仕事できるっていいなー、と悦に入っていました。ところでポーランドのザリってどんなところでしょう。木屑を糊で固めたような合板に[ポーランド・ザリ]とカタカナで生産地が印刷してあります。またゆっくりネットで調べてみます。ちょっと疑問に思ったことをすぐにネットで調べられるなんて便利な世の中になったものです。
 夜は市役所近くの保健センターであった『ねずみ駆除薬剤使用方法研修会』というのに出席しました。村の保健衛生委員として。三木市では毎年二月に『ねずみ駆除運動』をしてるんですって。はじめて知りました。回覧板でまわしたらうちの村でも少しだけ注文があって、薬剤を受けとり、使い方を研修してきました。
 きょうは畑に出て、竹と木屑で大根や白菜の残り葉などを燃やして草木灰をつくることにします。山に植えた木に寒肥をやるとき醗酵鶏糞と草木灰を混ぜて施し、使ってしまいました。ジャガイモの畝をつくるのに堆肥と混ぜて草木灰を入れたほうがいいから。
 ことしも冬は寒いですが、あと三ヶ月で九十七歳になる妙子さんはきのうも竹薮に上がってきて竹の枝をせっせと切っていました。なにしろいっぱい竹を伐り倒しましたから、枝のついた先の部分は山積みしてあります。その枝を花バサミでチョキチョキ切るのを自分の仕事と心得て、寒かろうと暑かろうと午前も午後も竹薮に上がってきます。
 使命感というか成就感というか達成感というか、主観的にはそういう『感』が人間の行動を支えるのでしょう。耳は遠くなり、本を読んだり書いたりするのは目も頭も面倒になり、体は元気だからどこかに『感』を求めるのでしょう。遠くない将来の自分の姿を見るようでとても勉強になります。
 
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また木の苗を買ってしまいました。

2010年02月03日 02時51分48秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは買物に出掛けてホームセンターに寄り、また木の苗を三本買ってしまいました。竹薮を切り開いて少し空地ができたからってどんどん木を植え、詰め過ぎを反省したところだったのですがね。
 しばらく放念していたのに、頂上まで道をつけたらまた『木を植えたくなる病』にかかったのでしょうか。店頭で物色していると、苗木が「大将! あっしを植えてくだせー。三年もすれば立派な木になりますぜ。いっぱい実をならせてあげますぜ」と声を掛けてくるような気がするのです。
 以前「私なら竹薮だったところに木を植えたりしませんがね」と植木屋さんにさんざん言われたけれど、この三年間に30本植えて枯れた木は三本だけです。植えるのは小さい穴でも大丈夫でしょう。タケノコが出てきたら片っ端から蹴飛ばしていくのですから。
 2月になりました。畑仕事も増えてきます。タマネギの二度目の追肥、イチゴの追肥と草取りをしてマルチ掛け、ジャガイモの畝つくり、コープ瑞穂農園の堆肥をもらってきて畑を耕す仕事もあります。 まずあぜシートを三枚つないで堆肥入れをつくらねば。いまその堆肥入れのふたをつくっています。あしたは直径1メートル30センチのふた(三枚)にペンキを塗りましょう。堆肥入れは三つ。一つは瑞穂農園の堆肥用、二つ目はうちの畑で草・モミガラ・乾燥鶏糞・土・ぬかなどを踏み込んでつくる堆肥用、三つ目は燻炭・ぬか・モミガラなどを入れておく容器になります。
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竹との勝負は勢いをそぐ先制攻撃で。

2010年02月02日 06時01分53秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 勇ましいタイトルをつけましたが、実はすでに何十年も竹に攻撃されて、里山は死滅しかけています。もし竹が一斉に枯れたら、はげ山になります。我が家の裏山も竹を『皆伐』したらほとんどはげ山です。ひょろひょろのアラカシ・シャシャキ・アセビなどの苗木が50センチほど伸びているだけです。
 しかし竹より高く伸びるコナラやクヌギは生き延びることができました。竹を圧してしっかり根付いています。裏山は、幅10メートルほどですが、頂上まで帯状にクヌギ・コナラ林になりました。
 まえにも書いたように地下では「えらいこっちゃ。このままでは滅ぼされてまうがな」(タケは大阪弁つかうかなー)とタケノコの芽が満を持して待機しています。竹を伐ると危機意識がはたらいて、すごい勢いでタケノコが生えるというのは本当です。また竹は里山を征服するとき、7年目からは爆発的に竹薮を広げるとも書いてありました。何十年と拡大してきた竹薮は『皆伐』という危機に、この春は張り切るでしょうね。
 タケノコを幼いうちに切ると竹の根に養分を残すことになるから、しっかり成長させて養分を使い果たした8月ごろに伐るのがいい、とホームページには書いてあります。でも孫たちは、5月にタケノコを蹴飛ばす作業にはまるでしょう。去年も竹薮を歩き回って徹底的に蹴飛ばしてましたから。あの子たちは目はいいし身軽だし『タケノコケトバシ』をしてもらうと助かります。
 我が家の近くに放棄されたような50坪ほどの宅地があります。そこの持ち主は三年前にやってきて竹を皆伐し、数日後に燃やして完全な宅地に戻しました。一年パスしたいまは元の竹薮になっています。地下茎を張り巡らしたところが竹薮に戻るには一年あればいい。だから竹薮との勝負は毎年やらねば負けます。
 竹に勝つことは無理です。でもワシの目の黒いうちは裏山だけは竹をのさばらせないぞ! 
 
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竹林の侵食・拡大を防ぐためにできることは……。

2010年02月01日 02時39分00秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 このブログでも幾度か訴えてきましたが、里山・耕地への竹の侵食がいま進行しています。夜中に起きて、竹林を間伐してタケノコの採れる竹薮にしようとしているところ、皆伐して竹の侵食を防ごうとしているところ、竹伐りボランティアを募集しているところなどのホームページを二時間ほどのぞいていました。「竹切りか。おもしろそうだ」という初心者より多少は経験を積んでいる者として、問題の大きさにため息が出ます。
 いまから10年前、定年退職してまだ神戸の市街地に住んでいた頃、神戸市北区のある村が『竹林オーナー募集』を行いました。田舎暮らしに憧れていた道子さんは早速応募して、50平方メートルの竹林オーナーになりました。一年につき1万円でオーナーになり、自由に竹を切り、タケノコを掘っていいというのです。
 自分の鍬(タケノコ掘り用の唐鍬)と竹切り用の鋸を配ってもらい、黄色・黒色のトラロープで区切られた自分の山に入って、まずやったのは竹を切ることでした。弁当を持って出掛け、直径20センチ超の太い孟宗竹を切り倒すのです。ぼくは竹切り作業にはまり、道子さんは一度に30本超のタケノコを掘って持ち帰り、せっせとゆでて人におすそ分けしました。
 竹は、密集しているので伐っても他の竹に引っ掛かり、容易には倒れません。それを短く何度も切って片付けると空が見え、日が射してきます。スペースができると切った竹は豪快に地面に倒れます。それが実に気持ちいい。いままで体験したことのない征服感に全細胞が反応します。なんという壮快感!
 というように竹薮との付き合いがはじまったのですが、まだ竹薮に大きな問題意識はもっていませんでした。しかし数年間竹林オーナーをやってみて、竹は切っても切っても竹林が拡大していくことを知りました。山の持ち主は檜を植林したけれど孟宗竹に占拠されてしまったのだとわかりました。  (つづく)
 
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