古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

雨で畑がしっとりしました。

2012年06月10日 03時06分42秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 畑はまだ畝間がぬれているので山仕事をして一日をすごしました。でも夕方生ゴミを捨てに畑に行ってみると小雨が降りそれに夕日が射して、向こうの山に虹がかかっています。きのうはカメラを持って出なかったので軽トラに乗って家にとりに帰り、畑に戻ってみたら日が沈みかけて虹も消えかけていました。
 長い人生でもあんな鮮やかな虹は見たことがありません。ほんと。残念でした。
               
 カボチャの畝にうちで育てた苗を15本植えました。それにもらった冬瓜を一株。ツルが伸びたら右の土手に這わせます。全部が一人前にできれば多すぎるのですが、さー、いくつできるでしょう。
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『ツバナ』を食べたのを思い出します。

2012年06月09日 02時43分58秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 いま草むらではチガヤの花=『ツバナ』がいっぱい生えて、綿毛のようなものを飛ばしています。この間から散歩してこの『ツバナ』を見るたびに、若芽を子どもの頃食べたのを思い出しています。そしてあの頃これを何と呼んでいたか思い出そうとするのですが、『ツンドラ』という音しか浮かびません。
 山陰の鳥取県中部地方ではツバナを『ツンドラ』と呼んだかもしれないし、ぼくの記憶間違いかもしれません。「ツンドラ」というと社会の時間に習う言葉で、「永久凍土の草原」みたいなところです。どうしてツバナをツンドラと呼んだのでしょう。
 ぼくは昭和20年(1945年)の敗戦のとき7歳でした。敗戦で多くの人が外地から引き揚げ、みんな食べるものが乏しく飢えていました。田舎に住んでいたぼくたち非農家の者もひもじい思いで生きていました。だから自然にあって食べられるものを何でも食べました。都会ではたくさんの子どもや大人が餓死しました。
 ツンドラがどんな味だったかいま食べてみる気はしません。食べた記憶だけが残っています。
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『チクチク』くんの出番です。

2012年06月08日 04時03分29秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 道子さんがゴマを播いて、朝晩水をやりました。十数センチおきに数粒ずつ播くのです。すると写真のようなかわいい芽が出てきました。まわりの黒いものは燻炭です。これが150センチ前後の一本の茎になり、上から下までずらっと花が咲き、ゴマのサヤができます。だから苗は生長したら一本だけにして他は間引きます。
                
 ところが数粒のかわいい苗が次の日に見ると姿を消しています。そこで「犯人さがし」をしてみたら、小さいウジムシのようなネキリムシ・夜盗虫の子どもが出てきました。写真の畝の手前に掘り返したように見えるのが犯人をさがした現場です。
 これでは生長するまでにゴマの苗がなくなってしまいます。そこで我が家の強力な助っ人『チクチク』くんに助けてもらうことにします。ウッドデッキに干していた大麦を踏み、棒でたたき、それをフルイにかけて大麦を収穫しました。5,5キログラム採れました。焙煎して飲んでみたら、淡い上品な味の麦茶です。
               
 細かいフルイにかけると麦の粒は落ちないけど穂先のヒゲは砕けて落ちます。それを集めて写真のように苗の上やまわりに撒きます。(粒も少し落ちてしまいますが)これで夜盗虫・ネキリムシを防げます。上の写真の畝で、点々と淡い色になっているのがチクチクを撒いたところで、苗がまだ残っています。歯抜けになったところにはあとで数本生えているところから移植します。
 ゴマや野菜の種を播いて苗を育てるとき、チクチクくんはよく活躍します。麦のヒゲには一本一本にノコギリ状のギザギザがついており、刺さると食い込むほうにだけ進みます。
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朝の散歩を復活しようと思います。

2012年06月07日 01時13分27秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 朝6時に家を出て、畑を見まわってからうちの村のゴミステーションまで歩きました。いま田植えの最中なので田んぼに水が張られ、田植えを待っています。写真では朝日をあびた大将軍神社の森が、田んぼに写っています。この森は見なれているのにこの景色は新鮮で清清しい!
 ふだんは夜中に起きてパソコンをさわり、それからちょっと寝て朝7時頃起きます。洗顔のあと瞑想・膝体操をして、朝食を食べて、8時半頃からときどき散歩をします。しかし日はすでに高く、清清しい朝という時間ではありません。畑に寄り、そのままずるずる仕事をしてしまい、散歩はしないまま時間が過ぎてしまうことがよくあります。例の草刈りをした周回道の散歩もひと月以上行っていません。もう草が茂って通れなくなっているでしょう。あそこは冬まで寄りつかないことにします。
 朝早く散歩に出ると気持ちがいい。しばらく朝食前に散歩をします。
                
 これは田植えをしたばかりの田んぼにかこまれたゴミステーションです。先日道端の草をぼくが刈り、道子さんが前の空き地に花を植えました。ゴミステーションなんてなんの風情もないと思うのに、それぞれの田舎の村のゴミステーションにはなんか風情があります。
 
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大麦のすべてを活用します。

2012年06月05日 01時24分01秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 穂先を切った麦わらです。スイカの畝に敷きました。この上にツルを這わせます。スイカとトウモロコシはアライグマに一番ねらわれる作物です。カラスに穴をあけられたこともあります。カラスを防ぐには、二畝分の幅にツルを閉じ込めて、上にテグスを張りめぐらします。アライグマはそれでは防げないので、夜はラジオをつけるかあるいは動物ネットを張るか。 
               
 穂先のほうはいまデッキで日に干しています。カラカラになったらシートの上から踏みます。それでほとんどの粒は落ち、チクチク(穂のひげ)は折れます。それをフルイにかけて選別します。おそらく祖先が麦をつくりはじめたときもそんなやり方で収穫したでしょうね。
 粒を焙煎して麦茶を飲み、チクチクを撒いて夜盗虫からゴマの芽を守る。さらに『根』は土をよくします。
                   
 写真はカボチャを植える予定の畝です。畦のすぐ下に大麦を植え、刈り取り、そのあとに堆肥・燻炭・鶏糞・有機石灰を入れて耕しました。ここの土は大麦が根を張りめぐらしたお陰で(一本の麦の根はシベリア鉄道の長さにもなるとか……ほんとかな)こまかくなりました。カボチャのツルは左の土手に這わせるつもりです。遊歩道の右はイチゴネットハウスで、もうすぐネットをはずします。今年の大豆は直播きしますから、二週間ほどハト対策にネットをつかうつもりです。
 このカボチャの畝はうちの400坪の畑の中でも一等席です。一番東にあって朝日はよくあたるし、水はけはいいし(田んぼですが水が漏れるんです)、風もあたって涼しいし、見晴らしもいいし(「見晴らしがいい」と植物も気分がいいと思うのですがどうでしょうか)、申し分ありません。墓の下の土手をまわってイノシシ・狐・アライグマなどがやってくるのが難点です。そうそう。思い出しました。去年はカボチャがかじられていました。犯人はアライグマでした。檻を借りて仕掛けましたが野良猫と狐がかかっただけでした。
 麦は捨てるところがありません。根も茎も穂先のヒゲもそしてもちろん麦の粒もすべてが役に立ちます。
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大豆の畝を耕しました。

2012年06月04日 02時57分57秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 写真は落花生を植える畝です。畝間に水をためて吸い込ませ、黒マルチをかけています。雨が降らないのでカラカラですが、この畝の底のほうは湿った土になっています。今年はいままでより一本減らし、10メートル畝三本に植え付けます。100株が75株になります。ポットに播いた種はいま芽を出しはじめました。あと10日ほどで植えつけられるでしょう。それまでに梅雨入りして雨が降ればいいのですが。
 きのうは大豆の畝立てをしました。今年は12~15メートルの畝5本に大豆を植えることにします。畝幅は1,5メートルと広めにしました。去年は大豆の収穫は13キログラムでした。7,5キログラムを味噌に使いますから残りの煮豆用にもうちょっと収穫したい。今年は1本でなく2本ずつの直播きにします。ただし畝に対して直角に15センチの間をとって種を播きます。また前後の間は45センチ空けてよく風が通り、アセビの煎じ薬なども散布しやすいようにします。
 20キログラム程度の収穫になればちょうどいい。我が家の有機無農薬の大豆は、煮豆にしたときの味がちがいます。市販の煮豆や市販の大豆を煮たのではこの味は味わえません。
 よその有機無農薬の大豆を見せてもらったことがありますが、その選別基準にはついていけない感じがしました。多少の虫食い、紫斑病・褐斑病の大豆も入れた選別になっています。食べるのに差し支えはありませんが味が違います。以前試しに〈褐斑病〉の大豆と〈全くきれいな大豆〉を別々に煮て食べたことがあります。味が違いました。
 畝には有機石灰・燻炭・藤原ポートリーファームの鶏糞(窒素分が少なく燐酸・カリが多い)・コープ瑞穂農園の堆肥を入れて耕運しました。ジョレンで整形して畝を高くしてから、そうですね、10日過ぎにタネを播きます。『サチユタカ』は晩播すると茎が伸びないとネットのコメントを見たので。黒大豆は遅播きのほうがいいそうで、これは20日を過ぎてから播き、苗にして植えつけます。
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映画『一枚のはがき』は心に残ります。

2012年06月02日 03時45分33秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 ふつう右の255ミリの鋸歯をつかって草を刈りますが、先日は185ミリの鋸歯をつかいました。裏山は木が混んでおり、植えた木のそばまで草や笹を刈ろうとすると大きな鋸歯では切ってしまうことがあるからです。刈ってみるとたしかに刈りやすい。裏山はこれからもこの小さい鋸歯をつかいます。
 4月には三田で、5月には加東市で『一枚のハガキ』の上映会があり、どちらかに見に行きたいと思っていました。でもいろんなことが重なってバタバタ過ぎてしまいました。そしたらテレビの日本映画専門チャンネル(834チャンネル)でやるのを偶然知り、バッチリ見ることができました。
 野良仕事をしたり車を運転していると、この映画の場面が「フッ!」と浮かびます。
 召集されて長男が出征する。わら屋根の家。前庭。家族と村人数人だけが並び、出征する兵士を送る。演壇であいさつ。万歳。よく知るからこそ大胆に省いてつくれる簡潔な舞台です。長男が戦死し、次男が出征するときも同じ舞台。多くの村人や見送りの小旗が省かれ、イメージが観客のたましいに食い込みます。
 アメリカのドンパチ映画は途中まで見て「この映画まえに見たことがある」とやっと思い出すことがありますが、この映画は冒頭から忘れられない場面がつづきます。新藤兼人監督だからつくれた映画です。
 新藤兼人監督は先日100歳で亡くなられました。朝日新聞の記事にこんなふうに書いてありました。


     (監督は映画を撮っていて涙がとまらなくなった) …… 万感の思いの中心には、
     すべてを出し切った満足感があったと思う。映画にすべてを捧げ尽くした人生。
     今頃は戦争で逝った仲間に再会し、褒められているに違いない。
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田植えの月になりました。

2012年06月01日 05時09分05秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 田んぼに水が入りはじめました。五月、あまり雨が降りませんでしたがため池には水があります。「大丈夫!」と思うたびに、むかしはときに命のやりとりをするような「水争い」があったことを思います。夜ウッドデッキに出ると蛙の大合唱。ひと晩中鳴いています。「田植え時だなあ」、「田舎の、いかにも田舎らしいゴールデンタイムだなあ」と思わず深呼吸をします。
 六条大麦を刈りとって、写真のように小屋で穂先だけを切り集める作業をしました。 
               
 穂先はしばらく日に干してから踏んで大麦にします。副産物の『チクチク』が去年より多くなりそうです。間もなく芽を出すゴマや秋野菜の苗のまわりに撒くことができます。ネキリムシ・夜盗虫をシャットアウトするには一番効き目があります。
 母の「ぎっくり腰」は圧迫骨折みたいなものだったようで、起き上がるのを痛がらなくなりました。昼間はコルセットをします。伝い歩きでトイレや洗面所に行きますが、少しだけ介助があったほうがいい。ですから家にいるときは付き添います。しかし気力の満ちているときは「自分でするから」と介助をふり払います。このたびのぎっくり腰で「寝たきり」になるかと思いましたが気力は萎(な)えていませんでした。
 母・妙子さんは『でんでん虫の歌』という随筆集を出版したことがあります。米寿を寿(ことほ)いで夫が逝ったあと、自分の遺書のつもりで書いた本です。
 その『あとがき』に、彼女は書いています。

 この世を去るにあたって、お世話になった方々、語り合った友だち、そしてわが親族のみなさま、子たち孫たち曾孫たちに御礼申しあげます。…… …… ではみなさま御機嫌よう。
 
 これを書いたときは、「し残したこと思い残すことはもうない。あの世には知人友人がつぎつぎと行って待ってくれている。自分もそろそろあの世に旅立とう」という気だったと思います。そして「あとがき」の日付は2000年9月1日。
 あれから、夫の一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌も過ぎ、自分も九十九歳になり、来年は夫の十七回忌。自分は100歳。まさかそんなことになろうとは。あんな本を出したのが恥ずかしい。(と思ってるかどうか母にはきいてませんけど)世の中というのは自分の思うようにはならないものです。
 このごろぼくは思います。
 ひとりひとりの人間には、それぞれの命のもつ『寿命』というものがある。それはその人の「こころづもり」とはまったく違う。命のいちばん深いところにひそんでいる「なにか」。「いつ」かわからないけど、それまでは生きる。そうするしかない。あれこれ考えようと考えまいとかならずその時はきます。
 
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