古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

外仕事の合間に「高木護」さんの本を読んでいます。

2012年12月09日 03時22分18秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 コンクリートのブロックを10個買ってきて、裏山に焚き火する場所をつくりました。落ち葉や枯れた竹を燃やします。ゴミは燃やしません。そんな場所にしたくないのです。
 休みには孫や親たちがやってくる。焚き火をかこむ。火を見る。あったまる。木立ちを風がぬけてゆく。落ち葉が吹き寄せられる。掻き集めて火にくべる。だれかがなにかポツッとしゃべる。そんな‘ひととき’があればいいですね。
 高木護さんの本を外仕事の合間に読んでいます。彫り刻むように書かれた字面(じづら)が食い込んできます。だれかさんのブログから新聞のコピーを転載します。
 

 (2006年)9月13日から、朝日新聞の夕刊に連載されている「ニッポン人・脈・記」で、「現代の漂泊」という新連載が始まった。その2回目(9/14)で高木護(たかきまもる・79歳……2006年現在です。1927年〈昭和2年生れ〉ですからいまはプラス6歳です)という詩人を取り上げていた。
 タイトルは「死ぬ時はアッカンベー 捨て鉢詩人 俗を刺す」。この記事がなかなか興味深かったので、かいつまんで紹介してみる。
 
 高木さんは熊本生まれで、44年に少年軍属として東南アジアに渡り、マラリアを患った。帰国後も、後遺症で定職に就けない。捨て鉢になり、野垂れ死にしようと考え、九州一円を放浪し始める。55年(昭和30年)のころからだった。
「行き先もないんですから、そのうち片づくだろうと……」という心境だったらしい。

<冬は鹿児島、夏は北九州を目指し裸足で歩いた。ほとんど野宿。墓の腐りかけた供え物を食べた。
 ある冬の夜。山の中で野宿をした時のことだ。枯れ葉を集めて寝ていると、闇の中、ガサガサと音がした。野犬か。イノシシか。死んだふりをして震えていた。
 とつぜん、近づいてきた獣が立ち止まり、周りの枯れ葉を後ろ足でかけ始める音がした。「獣がおれを仲間と思い、一生懸命枯れ葉をかけてやろうとしている」。胸が熱くなり、涙があふれてきた。
 高木は4年間の放浪の後、北九州の労働下宿を転々とし、日雇いとして働いた。女性誌に「最後の放浪詩人」として取り上げられ、評判になった。>  
 

 
 
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秋ジャガを掘りました。

2012年12月08日 03時04分08秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 11月15日のブログに「今年の紅葉はきれいです」とよそのお宅の「ニシキギ」の写真を載せました。それを読んでくださった方から立派な「ニシキギ」の鉢植えをいただきました。1メートル近い木で枝振りが見事です。裏山のモミジの横に植えました。
 モミジは数年前に篠山に行ったとき「多紀園芸」という店で、なんとなく買ってしまった膝の高さほどの鉢植えでしたが、裏山に植え替えたら今では背丈を越す木に生長しています。ここにもう1本「スズランの木」を植えたら『世界三大紅葉樹』が勢揃い。なんだかうれしくなってきました。早速スズランの木を買いに行きます。
                
 8月末に植えた秋のジャガイモを道子さんが掘って、ウッドデッキに干しました。700グラムを越すびっくりするような芋もあり、「デジマ」も「アンデス」もよくできています。
 散歩していたらとなりの村の人が、庭先で落花生の殻をむいておられました。10株ほどつくられたそうで、しばらく立ち話しました。
 道子さんがポット植えした苗をあげたり種をあげたりして、今年はうちの村では三軒の方が落花生をつくられました。塩茹でした枝豆は独特のおいしさだし、煎った豆も市販の落花生と味がちがいます。
 来年はつくる人がもっと増えたらいいな。
 
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裏山の『愛宕さん』『祇園さん』にお参りしました。

2012年12月07日 03時34分12秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
「孫たちと裏山の祠(ほこら)にお参りして、秋の収穫をお供えしよう」と思ってるうちに12月になってしまいました。のんびり暮らしていても「いつかそのうち」というのはどんどん通り過ぎていくものです。
 きのうは朝思いついて、お供えの小芋や薩摩芋を持ち、小銭を用意しておじいさん・おばあさんだけで登りました。お参りは7月の祇園さん・愛宕さんの祭り以来です。池の龍神にはどきどきお参りするし、大将軍神社(畑の神さん)には毎月お参りしているのに、ずいぶん間が空いてしまいました。そういえば西中の山頂の龍神さんへは4月に一度お参りしただけです。
                
 参道にとりついたら落ち葉が降り積もっています。裏山を外から眺めたらクヌギやコナラの雑木林ですが中から見ると竹薮です。裏山はかつては赤松が茂っていたそうですが、いまでは参道の両脇に孟宗竹が茂り、竹より背が高くなったクヌギ・コナラの枝が頭を出しているだけです。遠くから眺めると秋の彩りだけど中は竹林。そんな里山があちらにもこちらにもあるのでしょうね。あーあ。
               
 7月に村の当番の方とぼくらがお参りしてから、だれも来ておられないのでしょう。祠のまわりには落ち葉が降り積もっています。祠のまわりを掃き清め、お供えをしてお参りしました。お正月になるまでにまた孫たちとお参りして、二つの祠に注連飾りをしようと思います。
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冬だ。蟹が待ってるぜ。

2012年12月05日 01時58分40秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 12月になると思い出します。2006年12月初旬に今の家に引っ越したことを。そして、なにはともあれまず城崎に一泊の旅をしたことを。目指すは蟹。「田舎暮らし」をはじめたささやかな祝いのつもりでした。以来冬には城崎か天橋立に蟹を食べに行ってます。
 母上にはショートステイに行ってもらい、今年も天橋立に出掛けました。西国三十三所の第二十八番・成相寺の上の展望台から道子さんが撮った写真です。よく晴れていて、「天橋立」がどうでもいいような小さい造作に見えるほど広々とした眺望でした。この展望台は、海岸の道から標高500メートルまで車で一気に登ります。
 そして、蟹は今年もうまかった。
 毎年のように天橋立に来るけど、丹後半島に行ったことはありません。「丹後半島の先端・経ヶ岬まで行ってみよう」夜中に目覚めてふとそんな気になり、岬まで車で走りました。
               
 これも道子さんが撮った写真です。左上に「経ヶ岬灯台」が小さく見えます。雨が降ったりやんだりの天候でしたが、岬の駐車場に着いたときは晴れていました。でも吹き飛ばされそうなくらいの物凄い風です。便所や売店はありますが人っ子ひとりいません。
 丹後半島って夏来るところなんですね。わかりました。
 なおぼくは旅の間ビデオを撮っていました。もっと歳をとって出掛けるのがおっくうになったら、家でビデオを見ながら蟹を食べようという魂胆なんですがね。
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高木 護さんの『棺桶ひとつ』を読みます。

2012年12月03日 03時02分36秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 東条町の図書館で借りた10冊の本の中に、「高木 護」という人の『棺桶ひとつ』という本が混じっていました。自分で選んで借りたはずなのに、どうしてこんな知らない人の本が混じったのでしょう。
 で、少しだけ読んでみたら面白い。「どんな人か予備知識を仕入れよう」とネットで検索しました。
 高木護さんは放浪の詩人というか、まーそんな感じの人です。
 1927年(昭和2年)生れで今年85歳になります。ぼくより10歳年上ですが、就いた職業が列挙してあり、それを見るだけでどんな人か興味がわいてきます。
 いろんな人がブログで「高木護」さんにふれているので、どんな職業を体験した人か写してみます。
 山番 / 伐採手伝い / 日雇い土方 / 炭焼き / 闇市場の番人 / トラック助手 / ちゃんばら劇団の斬られ役 / 古着屋の手伝い / 商人宿の番頭 / 飯場の人夫 / 沖仲仕 / コークス拾い / 占い師 / ニセ坊さん / 密造酒売り / うどん屋の手伝い / 等百数十種の職業についたり、ぶらぶら放浪したりして、詩やエッセイの本を何十冊と出している人です。
 なにかの縁があって、この人と、いま、出会うようになっていたのかも。読んでみます。
 
  
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『軍旗はためく下に』をやっと読みました。

2012年12月02日 05時01分40秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 今年の紅葉はいままでで一番よかった。
 どこを歩いてもどの山を見てもきれいでした。三木では紅葉の名所になっている「東光寺」「慈眼寺」「伽耶院」に行ってみようか、という気になりませんでした。川向うの蓮花寺の山々を遠くに見て、裏山と福地池をぐるっと歩くだけでこころがしっとりしました。
 いま落葉しきりです。畑に行く道に風が吹き、落ち葉が降りかかる様を写そうと思いますが、ゴミが落ちてくるような写真になってしまいます。秋が通り過ぎてゆくのをただ眺めるしかありません。
               
 この写真は、きのう金谷のローソン駐車場から撮りました。太い根が曲がり、その上に石のお地蔵さんが祀られ、エノキがすっかり葉を落として立っています。絵になる樹で、なんとなく好きです。それが伝わる写真になりませんでした。

 結城昌治の『軍旗はためく下に』をやっと読み終りました。9月はじめに、映画化されたこの作品のビデオテープを購入したのですが、「しっかり原作を読んで」から「しっかり見よう」と思って、中公文庫を買ったのです。読むのがしんどかった。読みにくいのでなく、軍隊の中で上官が兵士をいじめるのを読み進めるのが辛かった。
 昭和2年生れの作家・結城昌治は戦後、旧軍隊の恩赦関係の事務にたずさわったことがあり、その仕事で見聞したことが下敷きになっていますから、現実にあったことと考えられます。上官を殺害したり、逃亡した事件は、旧軍隊の内部の病根をあぶり出しています。だれかがこんな不条理を暴かねばならなかったのです。もし〝必殺仕事人〝みたいな頼み処があったら「旧上官○○をやってくれ」とかつての兵士たちが殺到したことでしょう。敗戦後は街角で旧軍人が刺される事件がときどきあったそうで、「刺し違えてでも恨みを晴らさねば」という気持ちが伝わります。その人たちもいまでは90歳前後で、生き残っている人は少ないでしょう。
 では、映画『軍旗はためく下に』を見ることにします。
 
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戦死した兵士の墓です。

2012年12月01日 04時26分35秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 神戸電鉄「えびす」駅の踏切を渡って坂道を登ると、写真のような戦死した兵士の墓があります。あの戦争には、この町からもたくさんの強い男たちが出征したでしょう。そして戦死した。その男たちをしのんで、町の人たちが立てたのでしょうか。
 きのうは三木の図書館に行く途中、車を止めてこの墓を見ました。石の柱に彫られた、戦死・戦病死の場所や年齢を見てまわると、中国戦線、ルソン島など南の島、沖縄となっています。20歳から35歳くらいの、人の一生で一番強健なときに、戦って死なねばならなかった。力強い男たちが、どんなふうに病気になり、どんな死に方をしたか。いま読んでいる本『軍旗はためく下に』(中公文庫/結城昌治)が、この墓にオーバーラップしてやりきれない気持ちです。
 おととし2010年6月に一泊で大塚美術館に出掛けたとき、四国巡礼第三番のお寺・金泉寺で戦死した兵士の顕彰碑を見ました。小さな村からたくさんの兵士が出征し、戦死していました。芦屋市には六甲連山の麓に大きな霊園がありますが、その入口近くに芦屋から出征して戦死した兵士の碑がずらっと並んでいます。一人一人の戦死した兵士に1本ずつ小さい碑が立っているのですが、あまりの多さに息を飲みます。
 勇敢に敵と戦って戦死した人は少なく、無茶な命令で突撃させられたり、飢えで体力がなくなって病死したのではないか。ぼくより10年早く生れたために出征した男たちを、思わないではいられません。ぼくも10年早く生れていたら……。
 90歳前後の男たちは、現世で体験したとも思えない地獄絵を、人に語る気にもなれず姿を消していきます。そして次の戦争の足音が聞こえてきそうな政治状況です。
 
 
 
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