古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

今年の『お花見』はどこも「おしまい」でした。

2015年04月08日 04時10分42秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 お互いに訪ね、訪ねられ、電話で話し、よく交流していた先輩が亡くなって2年。丹波市に出掛けて仏さんを拝んできました。家の方とお話して、長年の交流を思い返しました。
○ 落花生づくりを教えてもらった。 …… 思い出します。彼に、落花生の苗3本をもらったのは、1999年=うちが神戸市神出の休耕田で菜園の真似事を始めた年でした。あれから17年。100本の落花生を植えるようになり(今は縮小して75本)、ひとに「茹で落花生」を賞味してもらい、一端(イッパシ)落花生通(ツー)のような顔をして一席ぶったりします。散歩で村の人たちの菜園を見て、落花生を植えてる家があればおしゃべりもします。
 ※ 落花生の苗はホームセンターで売ってますが「高い!」。種をとっておけば自分でポット苗をつくれます。
○ 田舎での生き方を教えてもらった。 …… 彼は街でひと働きしてから田舎に帰り、大きな旧家を壊して小さい平屋を建てました。前を通る村人に声を掛けて呼び込める<サンルーム>(土間なので長靴のままお茶できる)をつくり、家はリビングルームを中心にして、来訪者が気軽に入れるようにしました。田舎暮らしをしようと思ったとき、あのイメージで我が家も建てました。長靴で上がれるウッドデッキ。あるいは玄関を入るとリビング・ダイニング・ルームになる家。気軽に上がれる「こころのひらいている家」。
 人は、ひとからなにかを与えられ、ひとになにかを与えて、生きる。 そうなんでしょうね。

 帰りに近くの薬湯風呂に入って骨休め。『薬膳カレーうどん』というのを食べました。ちょっといけます。風呂の中で村の人たちが「今年はろくに花見しないうちに花が終わってしまった」と話していました。通りすがりに見える桜はどれも見頃を過ぎてます。あの強風で。
 しかしうちの裏山は、6月に百合が咲く頃にかけて、若葉といろんな花が、これからたのしめます。
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今年の桜はおしまいです。

2015年04月07日 01時32分36秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                     
 裏山の桜に気をとられて、ちゃんとした「花見」をしていません。天気はよくないけど「吉川町・北谷川の桜並木を歩いてみよう」と、傘をもって出掛けました。しかし駄目でした。満開になるべき桜が強風で散ってしまい、花びらが雨で道にはりついています。ここの桜は青年のような若木で、花に勢いがあります。しかし今年はおしまいです。残念でした。
 なお北谷川の遊歩道沿いには『トウダイグサ』がはびこるように、いっぱい生えてます。あまり見かけない、花のような、葉のような、みどり色の草です。岬の燈台守の「燈台」でなく、むかし油を皿に入れて灯明として使った台に似ているから「灯台草」と名付けたそうで、実際そんな姿をしています。
 数年前「こんな変わった草が裏山にあってもいいかな」と根っこを抜いて持ち帰り、植えてみました。大事に育てたわけではありませんが毎年生えてきます。野草酵素飲料をつくるとき「この草も入れていいか調べて」と道子さんにいわれ、ネットで検索してみました。「全体が毒草」と書いてありました。草を手折って汁が手についてもかぶれるそうです。
 しかしあまりはびこらないようにして、見るだけなら、わくるない。いまも裏山にはちょっとだけ生えています。
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加賀乙彦『帰らざる夏』はなるべく少年に近い年齢で読む本でした。

2015年04月06日 04時42分44秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 加賀乙彦の『帰らざる夏』を読んだのは30年前、ぼくが47歳のときでしょうか。強い衝撃を受けました。
「いつか読み返そう」と思っていたこの本を読み終えました。77歳で読んでも読み飛ばせる本ではありませんでしたが、「なるべく少年に近い年齢で読む本だ」と思いしりました。自分がもう「少年」に入れませんでした。
 大型活字本の解説に中野孝次はこう書いています。


『帰らざる夏』は1973年、つまり敗戦後28年目に出現した作品ですが、この年は、やはり戦争中の純粋な軍国少女を扱った小説、郷静子『れくいえむ』の出た年でもあって、二つともそういう世代のかかえる問題を真正面からとりあげた力作として注目を浴びた。郷氏と加賀氏はほぼ同じ世代に属する作家です。(二人とも昭和4年・1929年生れ)すなわち、戦争を「聖戦」、つまり天皇の聖なる戦争として真正直に信じた世代だ。ということは、敗戦によって最も深刻な傷を受け、その傷痕をこころの奥深くかかえたまま戦後の時間を生きた人たちだということです。かれらにはおのずから、それに先行する世代(たとえば戦後派の作家たち)とも、後行する世代(たとえば、戦争を巨大な自然災害のように経験した、1935年〈昭和10年〉以降に生まれた者たち)とも違う、言いつくしがたい憤りと怨みとが日本と天皇にたいしてあり、それが戦後28年という時間をへてようやく、40代半ばに達したかれらの目に正しくとらえられることができたということでしょう。


 1937年(昭和12年)生れで敗戦のとき7歳だったぼくと、16歳だった加賀氏との距離は途轍もなく大きいです。
 昭和8年生れで「愛国少年」だった先輩は敗戦のとき12歳でした。8月15日で価値観がひっくり返ったとき「オレは一年間、黙って、じーっと、大人の言うこと・することを見た。そして、人間は、こんなものなんだ、と思うことにした」と話してくれました。
 語ろうとしても語りきれない「思い」をかかえて生きた人人が、高齢になり、生身の人生が歴史に送り込まれていきます。
 
 
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うちの桜が満開です。

2015年04月05日 01時22分18秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                       
 5年くらい前に裏山に植えた桜(ソメイヨシノ)が満開です。満開になったら写真をアップしようとうずうず待っていました。「こんな苗木みたいな桜か」と思われるでしょうね。でも去年まで一つも花の咲かなかった桜がこんなに咲いたので、ぼくはとてもうれしいのです。
 向こうに花見台が写っています。座卓は脚を継いでイスですわれるようにしています。あと5年もすれば桜が太くなり、見ごたえのある「花見」ができるでしょう。「もうちょっと生きればもっといい花見ができるな」。
                       
 こちらはオオデマリの蕾です。
 家の窓から裏山を眺めるとオオデマリは目の前で、どうしても目に入り、枝ぶりが気になります。そこで3本立ちの一本を切ってしまい、さらに小枝を強剪定しました。すると前の年は一輪だけ咲いたのに、去年は花をつけませんでした。「去年咲かなかった。あの剪定がわるかったか」と気になっていました。
 ところが今年は写真のような花芽がびっしり。「こりゃ、いっぱい咲くぞ!」とうれしさが込みあげます。

 この頃「オレはこんなに <花好き> だったかなー」と77年生きてきた人生を振り返ることがあります。オレが何をしようと、何と思おうと、花は毎年毎年、咲いていたんですねー。
 
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裏山の花見台で <お花見第一号> をしました。

2015年04月03日 02時15分12秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                       
 大志くんは春休みで「お泊まり」しています。裏山の桜・ソメイヨシノが満開になりそうで、花の好きな、ご近所の道子さんのお友だちに声をかけました。早速お孫さんと来てくださって、裏山の花見台で我が家の <お花見第一号> です。ご近所の中学生にも声をかけて、みんなでお茶とケーキで花を愛(め)でました。写真右上の白っぽいのが今年一番よく咲いている桜です。小さい写真でわかりにくいですが今年は6本のソメイヨシノが全部花をつけました。6本とも写真に写っています。おそらく3年後には6本が盛りあがるように咲き誇るでしょう。(と想像するだけでワクワクします)
 後で、もう2人のお孫さんも加わり(お友だちのお孫さんは小学校2年・4年・6年と元気な男の子3人)、さらにお向かいの訪問看護ステーションの方にも赤ちゃんを連れて来てもらい、にぎやかなお花見になってよかったです。
 テーブルとイスを整えたりお茶を出したりと道子さんとぼくはてんてこ舞いしましたが、喜んでもらってうれしかったです。満開のミモザの枝を切って、おみやげにしました。
                      
 裏山の遊歩道には道子さんがせっせと植えたアネモネとムスカリがあちこちに咲いています。桜がおわったら裏山の木々の花たちの出番です。<コデマリ・オオデマリ・花海棠・ライラック・ハナミズキ・ハナズオウ> など植えた木々だけでなく、竹藪の中でもとから頑張っていた <コバノミツバツツジ・ガマズミ・地味だけどネジキ・サカキ・ヒサカキ(シャシャキ)> なども花を咲かせ、お花見はずっと『つづく』です。いつでもおいでください。
 ケーキを平らげたあと、男の子たちはあの階段をつけた山道を「駆け上がり駈け下りる競走」をしはじめ、30秒くらいで登って下りてきます。そのうち「隠れんぼ」をはじめて、未踏の地と思ってる竹藪の繁みにももぐり込んで隠れます。すばしこくて、力はこぼれるほどパワフル。「<トム・ジーヤ>と<トム・ソーヤ>は別の生き物なんだ」と思いしりました。
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「辻政信」のような存在を出さない国に。

2015年04月01日 03時32分53秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 図書館で『蒋介石の密使・辻政信』(渡辺 望 著/2013年発行/祥伝社新書)という本を見つけたので、九州旅行の徒然に読んでみました。彼の経歴は「Wikipedia」に詳しく書いてあります。とにかく トンデモナイ 軍人です。本の帯には (「魔の参謀」と言われ、日本を破滅に引きずり込んだ男 / CIA 秘密文書が明かしたもう一つの知られざる「顔」!) とあります。
 また Wikipedia には 〔「機会があるならばためらいもせずに第三次世界大戦を起こすような男」(CIA・1954年の秘密文書)と酷評している〕 とあります。
 昭和14年(1939年)のノモンハン事件一つをとっても抹殺されるべき存在だったのに、左遷されても参謀本部に戻り、とにかくひどいことをした軍人です。でも彼の人気にあやかろうというのか、本屋さんにはいまでも彼の著書が復刻されて並んでいたりします。故郷には銅像がたっているとか。戦時中はマスコミに『作戦の神様』と祭り上げられたり。
 そんな「エエ加減さ」が破滅の穴を深くしたのに。そのために幾多の兵士が死んだのに。日本はそこの反省がありません。この本には、いま話題の原発をめぐってもこんな文があります。引用します。


 辻の人生の謎、嘘、不明の部分を解明する上で、前述のCIA機密文書の公開、その紹介に尽くした有馬哲夫氏の功績はきわめて大きい。
 有馬氏の機密文書の解読のおかげで、蒋介石と辻の結びつきに関する謎の解明も大きく前進した。また、辻以外にも、河辺虎四郎、有末精三、服部卓四郎、辰巳栄一など、陸軍の中枢にあった人間たちがあっさり大日本帝国への忠誠を捨てて、GHQや中国国民党のエージェントとして活躍したという隠された戦後史が判明することになった。
 さらに衝撃的だったのは、これら旧軍人たちの行動だけでなく、たとえば正力松太郎のような人物のCIAへの秘密協力の判明だった。正力は「podam(ポダム)」というコード名をCIAから与えられた正真正銘のエージェントであり、親アメリカ政策(たとえば、原子力政策の推進)を、自ら率いる読売グループを使って現実化しようとしたのである。正力はそのことと引き換えに、自身の政治的野心の実現に向けて、アメリカの援助を取りつけているが、その野心があまりに強引であったため、CIAの正力へのかかわりは次第に弱くなっていく。
 正力は、今や国内最大の発行部数(そして実は世界最大でもある)を誇る読売新聞において、神格化されてきた人物である。戦前国家への忠誠を唱えてきた軍人、そして戦後日本の言論界の中心にいた正力たちの隠された振る舞いを知るにつけ、私は「かつての日本人は現代人より立派だった」というような一般論は、とうてい成り立たないような気がしてくる。


 
 
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